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第9話「考えない」


 午前零時十四分。


 男は駅を出た。


 終電には間に合った。


 それだけで今日は十分だった。


 仕事が終わったのは十一時過ぎ。


 そのあと同僚と少し話した。


 駅まで歩いた。


 電車に乗った。


 途中の駅で乗り換えた。


 気づけば、腹が減っていた。


「……何か食べるか」


 時計を見る。


 零時十四分。


 コンビニにするか。


 家まで我慢するか。


 少し考える。


 駅前を見る。


 明かりが一つ、まだ点いていた。


 ハンバーガーショップ。


「まだやってるんだ」


 男は店へ向かった。





 ドアを開ける。


「いらっしゃいませ」


「こんばんは」


 店内には、ほとんど客がいなかった。


 男はメニューを見る。


 眠い。


 疲れている。


 あまり考えたくない。


「ハンバーガー一つ」


「かしこまりました」


「あと、水ください」


「かしこまりました」


 会計をする。


 番号札を受け取る。


 窓際の席に座った。


 スマートフォンを見る。


 通知が三件。


 仕事。


 広告。


 友人からのメッセージ。


 全部閉じる。


 画面を伏せる。


「……」


 何も考えない。


 それが一番楽だった。





「お待たせしました」


 店員がトレーを置く。


「どうも」


 ハンバーガー。


 水。


 それだけ。


 包み紙を開く。


 普通のハンバーガー。


 男は一口食べた。


「……おいしい」


 二口。


 三口。


 何も考えない。


 味について考察もしない。


 店について考えない。


 店員についても考えない。


 今日の仕事についても、


 もう考えたくなかった。


 ただ食べる。


 食べ終わる。


 水を飲む。


 時計を見る。


 零時二十七分。


「帰ろ」


 立ち上がる。


 トレーを返却口へ置く。


「ありがとうございました」


「どうも」


 店を出る。





 夜道を歩く。


 人はいない。


 車も少ない。


 コンビニの明かり。


 信号。


 閉まった店。


 住宅街。


 男はイヤホンをつけた。


 音楽を流す。


 歩く。


 何も考えない。


 ただ家へ帰る。





 午前零時四十一分。


 男は自宅の玄関を開けた。


「ただいま」


 誰もいない。


 一人暮らしだった。


 電気をつける。


 靴を脱ぐ。


 鞄を置く。


 上着を脱ぐ。


 そのまま部屋へ入る。


 冷蔵庫を開ける。


 水を飲む。


 風呂に入る。


 スマートフォンを見る。


 午前一時三分。


「寝よ」


 布団に入る。


 目を閉じる。


 すぐに眠った。





 午前七時十二分。


 目覚ましが鳴った。


「……」


 止める。


 眠い。


 仕事がある。


 起きる。


 顔を洗う。


 着替える。


 鞄を持つ。


 玄関へ向かう。


 そこで、


 足が止まった。


 玄関脇に、


 紙袋が置いてあった。


 白い紙袋。


 赤と黄色の小さなロゴ。


「……」


 男は袋を見た。


 昨日の夜。


 自分は何か買っただろうか。


 考える。


 ハンバーガーを食べた。


 それは覚えている。


 店から帰った。


 それも覚えている。


 でも、


 紙袋を持って帰った記憶はない。


「買ったっけ?」


 独り言。


 袋を持ち上げる。


 軽い。


 中を見る。


 何も入っていない。


「……」


 空だった。


 男は少しだけ考えた。


 昨日、酔っていたわけではない。


 誰かからもらった?


 いや。


 誰かが家に来た?


 鍵は閉まっていた。


 そもそも、


 誰かに会った記憶がない。


 もう一度、袋を見る。


 底に何か書いてある。


 小さな文字。




ありがとうございました


 男はそれを読んだ。


「……」


 数秒、黙る。


 そして、


「まあ、いいか」


 と言った。


 袋を玄関の端へ置く。


 靴を履く。


 会社へ向かう。





 電車の中。


 男はスマートフォンを見る。


 ニュース。


 動画。


 広告。


 昨日の店について検索しようとは思わなかった。


 紙袋のことも、


 すぐに忘れた。


 それより、


 今日の仕事のほうが面倒だった。





 昼休み。


「昨日、何食った?」


 同僚に聞かれた。


「ハンバーガー」


「また?」


「うん」


「好きだな」


「まあ」


「どこの?」


「駅前」


「ああ、あそこか」


「そう」


 それで会話は終わった。


 男は弁当を食べる同僚を眺めながら、


 昨日の店を少しだけ思い出した。


 普通の店。


 普通のハンバーガー。


 普通の店員。


 普通の夜。


 特に何もなかった。





 夜。


 帰宅する。


 玄関を見る。


 紙袋がある。


 朝、置いたままだった。


 男は一瞬だけ見た。


 そして、


 そのまま通り過ぎた。


 風呂に入る。


 夕飯を食べる。


 テレビを見る。


 寝る。





 三日後。


 紙袋はまだ玄関にあった。


 一週間後もあった。


 男は捨てようと思った。


 でも、なぜか捨てなかった。


 邪魔ではない。


 中身もない。


 ただの紙袋。


 そう思っていた。





 ある夜。


 男は帰宅した。


 玄関の電気をつける。


 紙袋を見る。


 昨日までと同じ場所。


 同じ形。


 同じ赤と黄色。


 ただ、


 袋の底に書かれていた文字が、


 少しだけ違っていた。




ありがとうございました。




 句点が一つ増えていた。


 男は見た。


「……」


 それから、


「まあ、いいか」


 と言った。


 靴を脱ぐ。


 部屋へ入る。


 テレビをつける。


 そのまま夜が過ぎる。





 午前一時。


 男は眠った。


 夢は見なかった。


 翌朝も仕事へ行った。


 その翌日も。


 その次の日も。


 紙袋は玄関にあった。


 男は考えなかった。


 なぜあるのか。


 誰が置いたのか。


 いつからあるのか。


 中に何が入っていたのか。


 なぜ捨てられないのか。


 考えなかった。


 だから、


 何も起こらなかった。


 少なくとも、


 男の人生には。





 ただ。


 ある夜。


 男が眠ったあと。


 玄関に置かれた紙袋の中から、


 小さな音がした。


 紙が擦れる音。


 誰も触っていない。


 袋の中には何もない。


 それでも、


 紙袋はわずかに膨らんだ。


 一瞬だけ。


 そして元に戻る。


 底に印刷された文字。




ありがとうございました。




 その下に、


 昨日までなかった一行が現れていた。




またお待ちしております。




 朝になれば、


 男はそれを見る。


 そしてきっと、


「まあ、いいか」


 と言う。


 だから、


 今日も普通の一日が始まる。


 何も知らないまま。


 何も考えないまま。


 ただ、


 次の夜を迎える。

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