第8話「また来ます」
午後六時四十一分。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
男は、いつものように店へ入った。
特別なことではない。
仕事帰りに、この店へ寄る。
もう何度目か分からない。
最初に来たのは、半年くらい前だった。
駅から近い。
混みすぎていない。
注文してから出てくるのも早い。
何より、ハンバーガーが普通においしい。
だから、何となく通うようになった。
「いつものですか?」
カウンターの店員が聞いた。
「はい」
「かしこまりました」
男は少し笑った。
「もう覚えてるんですね」
「よく来てくださいますので」
「そうですか」
少しだけ嬉しかった。
注文は、
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
いつも同じ。
男は会計を済ませた。
「お席でお待ちください」
「はい」
いつもの窓際。
いつもの席。
男はそこに座った。
スマートフォンを開く。
仕事のメール。
ニュース。
天気。
SNS。
いつもと同じ。
しばらくすると、
「お待たせしました」
店員がトレーを置いた。
「ありがとうございます」
男はハンバーガーを手に取った。
「いただきます」
一口。
「……うん」
いつもの味だった。
特別ではない。
でも、
それがいい。
毎回違う味だったら困る。
毎回違う店員だったら少し寂しい。
いつもの席。
いつもの味。
いつもの時間。
仕事のあとにここへ来れば、
だいたい同じものがある。
男はそれを気に入っていた。
食事をしながら、窓の外を見る。
駅へ向かう人。
駅から帰ってくる人。
自転車。
タクシー。
信号。
昨日も見た。
たぶん明日も見る。
男はコーヒーを飲んだ。
そして、
ふと思った。
「……ここ、なくならないよな」
独り言だった。
最近、駅前の店がいくつか閉店した。
コンビニも一つなくなった。
昔からあった本屋もなくなった。
街は少しずつ変わっている。
この店だって、
いつかなくなるかもしれない。
男はそんなことを考えた。
でも、
「まあ、まだ大丈夫か」
すぐに考えるのをやめた。
食べ終わる。
トレーを返却口へ持っていく。
「ありがとうございました」
「どうも」
男は店を出る。
ドアが閉まる。
いつもの帰り道。
駅へ向かう。
歩きながらスマートフォンを見る。
妻からメッセージが来ていた。
『夕飯食べた?』
『食べた』
『またあそこ?』
『うん』
『好きだね』
『普通に好き』
送信。
少しして、
『じゃあ今度一緒に行こう』
と返ってきた。
男は笑った。
『いいよ』
スマートフォンをポケットへ入れる。
翌週。
男はまた店に来た。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「いつものですか?」
「はい」
「かしこまりました」
同じ会話。
同じ注文。
同じ席。
同じハンバーガー。
男は食べる。
「おいしい」
帰る。
その次の週。
また来た。
さらにその次の週も来た。
店員はもう注文を確認しなくなった。
「いつものですね」
「はい」
それで通じる。
ある日。
男はいつもの席に座った。
けれど、
少しだけ違った。
窓の外の景色。
前より看板が一つ増えている。
道路の向こうの建物が取り壊されている。
駅前の店も変わっている。
男はハンバーガーを食べながら思った。
自分は何度もここへ来ている。
でも、
この店の中だけは、
あまり変わらない。
「……不思議だな」
男は笑った。
その日の帰り。
店員が、
「ありがとうございました」
と言った。
男はドアの前で少し振り返った。
「また来ます」
「お待ちしております」
男は外へ出た。
ドアが閉まる。
店員は次の客を迎える。
「いらっしゃいませ」
男は振り返らない。
その夜。
男の家。
夕食を終えたあと、
妻が聞いた。
「今日もあそこ?」
「うん」
「飽きないね」
「飽きないな」
「何がそんなにいいの?」
男は少し考えた。
「……分からない」
「分からないの?」
「うん」
少し考えてから、
「変わらないからかな」
と言った。
妻は笑った。
「変わらないものなんてないよ」
「まあ、そうだけど」
「店だっていつかなくなるかもしれないし」
「……」
男は少し黙った。
「そうだな」
翌日。
男は仕事へ行った。
その次の日も。
さらに次の日も。
忙しい日があった。
暇な日もあった。
雨の日もあった。
晴れの日もあった。
店へ行けない日もあった。
それでも、
時間ができれば、
また店へ行った。
ある日の午後。
男がいつもの席に座る。
店員が注文を受ける。
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
いつもの三つ。
食べ終わる。
立ち上がる。
「ありがとうございました」
「どうも」
ドアの前で、
男が言う。
「また来ます」
「お待ちしております」
外へ出る。
ドアが閉じる。
店内。
誰もいなくなった席に、
一枚のレシートが残っていた。
店員が拾う。
商品。
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
客数。
1
店員は確認する。
問題ない。
そのまま処理しようとして、
ほんの少しだけ手を止めた。
レシートの一番下。
今まで見たことのない項目があった。
保存:1
店員は首を傾げた。
「……?」
もう一度見る。
確かにある。
でも、
何を保存したのかは書かれていない。
店員はしばらくレシートを見ていた。
そして、
「まあ、いいか」
と呟いた。
レシートを処理する。
ゴミ箱へ入れる。
その頃。
男は駅へ向かって歩いていた。
今日も普通の一日だった。
明日も仕事。
明後日も仕事。
そして、
時間があれば、
またあの店へ行く。
男は知らない。
自分が何を「保存」したのか。
そもそも、
保存されたのが何なのか。
ただ一つだけ。
次に店へ来たときも、
店はそこにある。
いつもの席がある。
いつもの店員がいる。
いつものハンバーガーがある。
そして男は、
何も知らずに言う。
「いつものお願いします」
店員は笑顔で答える。
「かしこまりました」
そのやり取りだけが、
今日までと同じように続いていく。
まるで、
何かを残すために。




