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第6話「思い出」


 午後六時五十二分。


 老人は、駅前を歩いていた。


 買い物の帰りだった。


 牛乳。


 食パン。


 卵。


 それから、妻に頼まれた薬。


 妻はもういない。


 それでも、買い物に行くときは、昔と同じように必要なものを考える。


 牛乳は切れていないか。


 卵は残っているか。


 薬はまだあるか。


 長い間そうしてきたから、今でも自然にやってしまう。


 帰宅してから、


「ああ、もういないんだった」


 と気づくこともある。


 今日はまだ、気づいていなかった。


 駅前を歩く。


 夕方の人通り。


 仕事帰りの会社員。


 学生。


 買い物袋を持った人。


 自転車。


 信号。


 いつもの景色。


 老人は、ふと店の看板を見た。


 ハンバーガーショップ。


「……」


 少し立ち止まる。


 昔、妻と入ったことがある。


 まだ二人とも若かった頃。


 子どもが生まれる前だったか。


 生まれた後だったか。


 老人は思い出そうとした。


「……どっちだったかな」


 分からなかった。


 でも、別に重要なことではない。


 老人は店に入った。





「いらっしゃいませ」


「どうも」


 店員が笑顔で迎える。


 老人はメニューを眺めた。


「ハンバーガーを一つ」


「かしこまりました」


「あと……コーヒーを」


「はい」


 会計を済ませる。


 席を探す。


 窓際。


 老人はそこに座った。


 鞄を椅子の横に置く。


 店内を眺める。


 昔とはずいぶん違う。


 それでも、こういう店の雰囲気はあまり変わらない。


 子どもが走っている。


 若い二人が笑っている。


 会社員が一人で食事をしている。


 老人は少し笑った。


「昔も、こんなだったかな」


 誰に言うでもなく呟く。





「お待たせしました」


 ハンバーガーとコーヒー。


「ありがとう」


 老人は包み紙を開いた。


 普通のハンバーガー。


 少しだけ湯気が立っている。


 一口。


「……」


 老人は咀嚼した。


 もう一口。


 昔、妻と食べた味とは違う気がした。


 もちろん、同じ味なのかもしれない。


 味覚が変わっただけかもしれない。


 店が違うのかもしれない。


 そもそも、昔食べたのが本当にこの店だったのかも分からない。


 それでも。


「うまいな」


 老人は言った。


 コーヒーを飲む。


 少し苦い。


 それも悪くなかった。





 食べながら、老人は妻のことを考えた。


 最後に一緒に食べたのは何だっただろう。


 ラーメンだったか。


 寿司だったか。


 それとも、家で作ったものだったか。


「……」


 思い出せない。


 昔は覚えていた。


 妻が何を好きだったか。


 どんな服を着ていたか。


 よく行った店。


 よく歩いた道。


 何でも覚えていた。


 最近は少しずつ抜けていく。


 老人は、それを年齢のせいだと思っていた。


 だから、あまり気にしないようにしている。


 忘れることは、誰にでもある。





 ハンバーガーを食べ終えた。


 紙ナプキンで口を拭く。


 コーヒーを飲む。


 老人は窓の外を見た。


 道路の向こうに、街灯が一つ。


 その下を、若い男女が歩いている。


 女が笑っている。


 男が何か話している。


 老人は、昔の自分たちを少しだけ重ねた。


「……」


 でも、顔が思い出せない。


 妻の顔が。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 老人の頭の中から、


 妻の顔だけが抜け落ちた。


「……え?」


 老人は目を閉じた。


 思い出そうとする。


 白髪。


 声。


 手。


 笑い方。


 名前。


 全部分かる。


 妻だったことも分かる。


 自分が愛していたことも分かる。


 なのに。


 顔だけが出てこない。


「……」


 老人はしばらく動かなかった。


 それから、


「疲れてるのかな」


 と呟いた。


 もう一度、目を閉じる。


 妻の声を思い出す。


『あなた、またそんなところに置いて』


「……」


 声は思い出せる。


 笑い方も。


 怒ったときの言い方も。


 それなのに、


 顔だけがない。





 老人は席を立った。


 トレーを返却口へ持っていく。


「ありがとうございました」


「どうも」


 店を出る。


 夜になっていた。


 老人は歩きながら、何度も妻の顔を思い出そうとした。


 思い出せない。


 けれど、帰る方向は分かる。


 家の場所も分かる。


 妻が好きだった料理も分かる。


 結婚記念日も覚えている。


 写真を見れば、きっと分かる。


 だから、


 大丈夫だ。


 そう思った。





 家に帰る。


「ただいま」


 返事はない。


 当然だった。


 老人は買い物袋を置いた。


 冷蔵庫を開ける。


 牛乳を入れる。


 卵を入れる。


 薬を棚に置く。


 それから、居間へ行く。


 壁に写真がある。


 結婚した頃の写真。


 老人と妻が写っている。


「……」


 老人は写真の前に立った。


 妻が笑っている。


 隣に、自分がいる。


 老人は写真を見て、


「ああ」


 と笑った。


「そうだった」


 思い出した。


 妻の顔。


 ちゃんと覚えている。


 写真があるからだ。


 老人は安心した。


 椅子に座る。


 テレビをつける。


 ニュースを見る。


 今日も世界では、いろいろなことが起きている。


 老人はテレビを眺めながら、少し眠くなった。





 午後九時三十一分。


 老人は財布を開いた。


 レシートが入っている。


 今日のもの。


 ハンバーガー。


 コーヒー。


 金額。


 時刻。


 客数。


1


 老人はそのままレシートを机の上に置いた。


 ゴミ箱には入れなかった。


 何となく。


 昔から、レシートを捨てるのが少し苦手だった。


 妻が、


「家計簿つけるから取っといて」


 と言っていた頃の癖が残っている。


 もう家計簿をつける人はいない。


 それでも、捨てられない。


 老人はレシートを机の端へ寄せた。


 そして、写真を見る。


「……」


 妻が笑っている。


 今度は顔が見える。


 ちゃんと。





 翌朝。


 老人は朝食を作った。


 食パンを焼く。


 卵を焼く。


 牛乳を出す。


 いつもの朝。


 食卓には、一人分。


 老人は椅子に座った。


 向かい側には、もう誰もいない。


 それでも、


「いただきます」


 と言った。


 一人で食べる。


 食パンを一口。


 卵を一口。


 牛乳を飲む。


 それから、ふと気づく。


「……」


 昨日のことを思い出そうとする。


 ハンバーガーを食べた。


 コーヒーを飲んだ。


 店を出た。


 妻のことを考えた。


 写真を見た。


 そこまでは覚えている。


 ただ。


 昨日、


 妻の顔を思い出せなかったことだけが、思い出せない。


 老人は何も気づかなかった。


「さて」


 食器を片付ける。


 いつもの一日が始まる。





 その夜。


 机の上に置かれた昨日のレシートを、


 老人は何気なく財布へ戻した。


 捨てることはなかった。


 理由もない。


 ただ、


 何となく。


 そのレシートには、


 ハンバーガー一つ。


 コーヒー一つ。


 客数一。


 そして、


 老人自身も知らないところで、


 昨日まで確かに存在していた一つの記憶だけが、


 静かに失われていた。


 何を失ったのか。


 本人には、


 もう分からない。

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