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第25話「上から入る」


 十一時二十分。


 トウマは仕事場を抜けた。


「早すぎない?」


 ニキが後ろから来る。


「昨日、三十分早くって言っただろ」


「昼休み十一時五十分からだけど」


「移動時間」


「勤務時間」


「昨日三分遅刻した」


「今日は三十分早退する気?」


「差し引き二十七分早い」


「悪化してる」


 外壁昇降機の前で、トウマは止まった。


 下へ行けば、ぱんでむまで十二分。


 反転前の混雑を考えても十分間に合う。


 なのに押さない。


「行かないの?」


「行く」


「ボタン」


「分かってる」


 押さない。


 昨日、店の天井にあった扉。


 赤い取っ手。


 黄色い枠。


 どこから入るのか聞いたら、店員は「上から」と言った。


 トウマは昇降機ではなく、作業区画の奥を見た。


「ニキ」


「何」


「この建物の上って何がある」


「外壁」


「その上」


「空」


「その上」


「午後」


「……そういう答えじゃなくて」


「この街で上の話する方が悪いよ」


     ◆


 外壁へ出た。


 固定索を腰へ繋ぐ。


 午前重力では、建物の外壁はただの縦壁だ。


 午後になれば、その向こう側の構造面が生活側になる。


 二人は保守用の足場を横へ進んだ。


「昼飯行くんだよね?」


「行く」


「店、反対」


「知ってる」


「今、遠ざかってる」


「知ってる」


「何探してるの」


「扉」


「店にあるじゃん」


「外にもあるかもしれない」


 ニキが止まった。


「何で?」


「入口なら、反対側があるだろ」


「昨日の財布、空中で止まってたよ」


「うん」


「バーガーも」


「うん」


「普通の扉だと思ってる?」


「思ってない」


「じゃあ何で普通の探し方してるの」


 トウマも止まった。


「……他にどう探すんだよ」


「知らない」


「じゃ歩く」


「そうなるんだ」


 歩いた。


 配管。


 点検蓋。


 排熱口。


 固定索の中継柱。


 黄色いものを見るたびトウマは近づいた。


 警告板。


 工具箱。


 非常灯。


 全部違った。


「ないね」


「まだ七分」


「何が」


「昼休みまで」


「それを探索時間にするな」


 角を曲がった。


 ニキがトウマの背中へぶつかった。


「止まるなら言って」


「ある」


「何が」


 外壁に、赤い取っ手が付いていた。


 扉はない。


 枠もない。


 灰色の壁から、取っ手だけが生えている。


     ◆


「引く?」


 ニキが言った。


「引く」


「即答」


「昨日決めた」


「昨日は開けないって言ってた」


「今日は今日」


 トウマは取っ手を掴んだ。


 冷たい。


 普通の金属。


 引く。


 動かない。


「押すんじゃない?」


「取っ手なのに?」


「昨日の店、天井にあったよ」


「それ関係ある?」


「普通を捨てよう」


 押した。


 取っ手が壁へ沈んだ。


 かち。


 足元で音がした。


 二人とも下を見る。


 何もない。


 もう一度。


 かち。


 今度は頭上。


「……どこが開いてる?」


「分かんない」


 トウマが取っ手を横へ倒した。


 壁が開いた。


 縦にではない。


 壁の一部が、そのまま奥へ落ちた。


 四角い穴。


 向こうに、ぱんでむの店内があった。


「近っ」


 最初に出たのは、それだった。


 十二分歩く店が、壁一枚の向こうにある。


 カウンター。


 注文端末。


 客席。


 床と天井の両方に椅子。


 昨日見た店だ。


 ただし向きがおかしい。


 二人から見れば、店内は九十度傾いている。


 客が壁を床にして座っている。


 向こうの客も二人を見る。


「外壁から人いる」


 子どもが言った。


 母親が見ないふりをした。


「入る?」


 ニキが聞く。


「入る」


「どうやって」


「……」


 穴の向こうの床は、二人から見て横壁だ。


 飛び込めば、どちらへ落ちるのか分からない。


 トウマは固定索を見る。


「これ付けたまま行く」


「店内に作業索持ち込む客いる?」


「外壁から入る客より普通だろ」


「比較対象が壊れてる」


     ◆


 トウマが先に脚を入れた。


 何も起きない。


 もう片方。


 腰。


 店側へ身体を入れた瞬間。


「うわ」


 重さが横へ移った。


 壁だった面が床になる。


 靴底が着く。


 固定索だけが穴の外へ伸びている。


「入れた」


「見れば分かる」


 ニキも入る。


 着地。


 二人で穴を見る。


 外壁が、店の天井に開いている。


 作業索がそこから二本垂れている。


 店員が来た。


「いらっしゃいませ」


「これ、入口なんですか」


「はい」


「昨日の反転印?」


「はい」


「三回またいだから?」


「そうですね」


「何で外壁に?」


「上からですので」


「説明になってない」


「ご注文は?」


「話終わってない」


「ラストオーダーではありませんので、ごゆっくりどうぞ」


「そういう意味じゃない!」


 ニキが注文端末へ行った。


「二層肉、熱豆、重力ゼリー」


「お前もう注文してるの?」


「昼休みだから」


「まだ二分前」


「じゃあ二分得した」


 トウマは黙った。


「……圧肉バーガー」


「硬菜チップ?」


「うん」


「炭酸水?」


「うん」


「毎日同じ」


「悪い?」


「別に」


 決済。


《お支払い 522》


「まだ一割引だ」


「よかったね、五十八」


「五十八を笑うな」


     ◆


 今日は反転をまたがなかった。


 急いでもいない。


 バーガーは熱かった。


 トウマはちゃんと噛んだ。


 ニキの重力ゼリーだけが、反転していないのに青い粒を逆向きへ落としていた。


「それ」


「何」


「今日まだ反転してないぞ」


 ニキが容器を見る。


 青い粒は上へ沈んでいる。


「外壁から入ったからじゃない?」


「そんなことある?」


「店員さん」


 呼ぶ。


「これ」


「ああ」


 店員はゼリーを見る。


「上口から入られましたから」


「上口」


「はい」


「正式名称あるんだ」


「あります」


「他にも使う人いる?」


「いますよ」


 トウマが周囲を見る。


 普通の客。


 作業員はいない。


「どの人?」


「今はいません」


「どこから来るんですか」


「上からです」


「もういいです」


 店員が去る。


 ニキがゼリーを一口吸った。


「うまい」


「それ毎日言うな」


「毎日うまいから」


     ◆


 食べ終わった。


 十二時十二分。


「戻るか」


 トウマは天井を見る。


 穴はまだある。


 作業索が垂れている。


 椅子を借りて上る。


「お客様」


 店員に呼び止められた。


「はい」


「お帰りはこちらです」


 指差した先。


 普通の出口。


「いや、仕事場あっちなんで」


「上口は入口専用です」


「は?」


「出口ではありません」


「入れたじゃん」


「入口ですから」


「同じ穴だろ!」


 トウマが椅子の上から覗く。


 外壁。


 自分たちの工具。


 固定索。


 見えている。


 手を伸ばす。


 指先が穴を通った。


 その瞬間。


 腕が天井へ落ちた。


「うおっ!」


 慌てて引っ込める。


 店側へ戻る。


 ニキが笑っている。


「何だよ!」


「入口専用」


「見れば分かる!」


「さっき店員さんも言った」


「じゃ仕事場どう戻るんだよ」


「十二分歩く」


「結局かよ!」


     ◆


 午後の始業には二分遅れた。


 監督が腕を組んでいた。


「昨日三分」


「はい」


「今日二分」


「改善してます」


「明日は一分か」


「その予定です」


「予定にするな」


 ニキが横を向いて笑った。


 トウマは作業帯を締め直す。


「すみません」


「飯屋変えろ」


「それはちょっと」


「何でだ」


「近道ができたので」


「遅刻してるだろ」


「行きだけなんです」


「何の話だ」


「こっちの話です」


 作業へ戻った。


 夕方。


 外壁の取っ手は消えていた。


 代わりに、小さな黄色い札が貼ってあった。


《営業時間 上から十一時二十分》


 その下に手書き。


《出口は下をご利用ください》


 トウマはしばらく読んだ。


 ニキが隣から覗く。


「店員さん、書いたのかな」


「知らない」


「明日も使う?」


 トウマは札を指で押した。


 剥がれない。


「使う」


「また遅刻するよ」


「明日は帰りの十二分を先に計算する」


「成長した」


「五十八円も浮く」


「そこは変わらないんだ」


 反転警告が鳴った。


 二人は固定索を確かめる。


 十秒後。


 街がひっくり返った。


 黄色い札も、外壁も、二人も、同じように上下を替えた。


 赤い取っ手だけは、どちら側にも現れなかった。


 翌日十一時二十分になれば、たぶんまた出る。


 トウマはそう思った。


 それで十分だった。

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