第26話「声ひとつぶん」
朝、ユノは声を六つもらった。
「少ない」
一つ使った。
母親が振り向く。
ユノは両手で口を塞いだ。
遅い。
喉の下に並んでいた六つの青い灯が、五つになっている。
母親は眉を上げた。
指を一本立てる。
《一つ》
ユノも一本立てた。
それから胸の前で両手を合わせる。
《ごめんなさい》
母親は首を振った。
笑っている。
学校へ行く前に、もう一つ減った。
◆
声は、夜になれば戻る。
大人は二十から三十。
子どもは五から十。
使い切っても困るのは喋れなくなるだけで、息もできるし、食事もできる。
だから街は静かだった。
駅では指が動く。
市場では札が回る。
喧嘩になると、誰も声を使いたがらないので、二人ともものすごい速さで手を振る。
ユノはあれを見るのが好きだった。
学校が終わった時、灯は三つ残っていた。
友達のマオが二つ。
校門でマオが指を立てる。
《ぱんでむ》
ユノは頷いた。
今日は母親が遅番だった。
夕食代はもらっている。
そして初めて、子どもだけで店へ行っていい日だった。
◆
ぱんでむは、うるさい店だった。
「いらっしゃいませ!」
入口を開けた瞬間、ユノの肩が跳ねた。
店員の喉には灯がない。
「二名様ですか?」
マオが二本指を立てる。
「こちらへどうぞ!」
また喋った。
ユノはマオを見る。
マオもユノを見る。
店員は気にせず歩いていく。
「お好きなお席へどうぞ」
四つ目。
数えるのをやめた。
窓際へ座る。
卓上の注文板を開いた。
《炙り鳥バーガー》
《月根フライ》
《泡蜜水》
写真の横に、小さな青い丸が付いている。
炙り鳥バーガー、青一つ。
月根フライ、青一つ。
泡蜜水、青一つ。
ユノは固まった。
マオが注文板を覗く。
自分の喉を見る。
二つ。
ユノは三つ。
二人で顔を見合わせた。
壁に札がある。
《ご注文はお声でお願いします》
その下。
《指差し注文はできません》
さらに小さく。
《声をお忘れのお客様は店員まで》
マオがユノの袖を引いた。
帰ろう、と手で言う。
ユノは首を振った。
今日のために、昼休みもほとんど喋らなかった。
母親には「一人で注文できた」と報告するつもりだった。
声を残したのは、そのためだ。
ユノは注文板を指した。
炙り鳥バーガー。
月根フライ。
泡蜜水。
三つ。
自分の灯も三つ。
ぴったり。
マオが自分を指す。
《私は?》
ユノは止まった。
忘れていた。
◆
「決まりました?」
さっきの店員が来た。
ユノは頷いた。
喉が急に狭く感じた。
注文するだけだ。
家では毎日喋っている。
学校でも使う。
でも、一日に三つしか残っていない声を、知らない人の前で使うのは違った。
ユノは炙り鳥バーガーを指した。
「これ」
灯が二つ。
「はい。炙り鳥バーガー」
月根フライ。
「これ」
一つ。
「月根フライですね」
泡蜜水。
指を置く。
言えない。
これを言ったら、今日はもう母親に声を出せない。
マオが自分の注文板を閉じた。
ユノを見る。
それから店員を見る。
「同じ」
マオの灯が一つになった。
「同じものをお一つずつ?」
マオが頷く。
店員は注文板へ入力した。
「泡蜜水は?」
二人とも黙った。
店員が二人の喉を見る。
「あ」
今さら気づいた顔をした。
ユノは少し腹が立った。
こんなに喋る人には分からないのだ。
「すみません。お水なら無料です」
ユノは首を振った。
泡蜜水が飲みたい。
今日ずっと楽しみにしていた。
マオが自分の最後の灯を指す。
泡蜜水を指す。
ユノがその手首を掴んだ。
駄目。
マオは眉を寄せる。
ユノは自分の最後の灯を指した。
自分が言う。
マオが首を振る。
二人で睨み合った。
店員が待っている。
後ろの厨房では、油が細かく鳴っている。
ユノは口を開いた。
「泡蜜水」
青い灯が消えた。
「はい」
店員が笑った。
「二つですね」
ユノは慌てて首を振る。
一つ。
指を一本。
「一つ?」
頷く。
「お二人で?」
頷く。
「かしこまりました」
注文板が閉じた。
ユノは喉を触った。
暗い。
少しだけ、心細かった。
◆
バーガーは大きかった。
マオは一口目で肉汁を制服へ落とした。
ユノは笑った。
声は出ない。
マオが睨む。
口元にソースが付いている。
もっと笑った。
マオも笑った。
二人とも無音だった。
泡蜜水には長いストローが二本刺さっていた。
向かい合って吸う。
泡が真ん中でぶつかる。
マオが強く吸う。
ユノも負けずに吸う。
最後の一口がマオ側へ行った。
ユノは机を叩いた。
マオが両手を合わせる。
《ごめんなさい》
全然悪いと思っていない顔だった。
ユノは空のグラスを奪って、氷を一個食べた。
冷たかった。
おいしかった。
喋れなくても、楽しかった。
◆
会計を終えると、店員が小さな紙袋を二つ渡した。
「本日の声です」
ユノは首を傾げる。
紙袋の中に、青い粒が一つ入っていた。
光っている。
マオの袋にも一つ。
「店内でご注文に使われた分から、一つだけお返ししています」
ユノは粒を見る。
そんな店は知らない。
声は使ったら夜まで戻らない。
店員が胸元を指した。
「飲み込めば使えますよ」
マオは即座に飲んだ。
喉に青い灯が一つ点く。
「ほんとだ」
その一言で消えた。
マオが固まる。
ユノは腹を抱えた。
声は出ない。
店員まで笑った。
マオがものすごい速さで手を動かす。
《笑うな》
《馬鹿》
《返せ》
返せるわけがない。
ユノは自分の粒を紙袋へ戻した。
口を折る。
ポケットへ入れた。
◆
夜。
母親はまだ帰っていなかった。
ユノは一人で宿題をした。
風呂に入った。
歯を磨いた。
二十二時十三分。
玄関が開く。
母親が入ってきた。
喉の灯はゼロだった。
遅番の日はいつもそうだ。
母親がユノを見る。
手を動かす。
《どうだった?》
ユノは頷いた。
両手で大きな丸を作る。
《おいしかった》
母親が笑う。
《注文できた?》
頷く。
それから、ポケットの紙袋を思い出した。
青い粒。
一つ。
ユノは取り出した。
母親が首を傾げる。
飲む。
喉に灯が一つ点いた。
母親の目が少し大きくなる。
ユノは今日、ずっと言うつもりだった言葉を考えた。
一人で注文できた。
マオと行った。
泡蜜水を半分こした。
店が変だった。
全部言いたかった。
でも声は一つしかない。
ユノは鞄を置いている母親の背中を見た。
「おかえり」
灯が消えた。
母親の手が止まった。
振り向く。
少しして。
母親は声のないまま、笑った。
両手を動かす。
《ただいま》
翌朝。
ユノの喉には、七つの灯が点いていた。




