第24話「落としものは上」
「ない」
トウマは言った。
「何が」
「財布」
ニキは歩きながら熱豆を食べていた。
「ポケット」
「ない」
「鞄」
「ない」
「昨日の作業着」
「見た」
「家」
「見た」
「じゃ、ないね」
「だから言ってる」
昼休み。
昨日より二十三分早い。
昨日、反転ぎりぎりでバーガーを食べる羽目になったトウマは、今日は余裕をもって出た。
その結果。
財布がなかった。
「端末払いすれば」
「財布に割引券入ってる」
「何の」
「ぱんでむ」
「何割?」
「一割」
「いくら得するの」
「五十八」
ニキが熱豆を一個噛んだ。
「諦めたら?」
「五十八だぞ」
「五十八だね」
「五十八あれば炭酸水を大きくできる」
「できないよ」
「足せばできる」
「足すなら五十八でできてないじゃん」
「うるさい」
◆
昨日と同じ店。
昨日とは逆の入口。
午前側なので、今日は頭上に午後用の客席が並んでいる。
トウマは店へ入るなり、床ではなく天井を見た。
「何探してるんですか?」
店員に聞かれた。
「財布」
「落とされたんですか?」
「たぶん昨日」
「特徴は?」
「黒。四角い。薄い」
「財布は大体そうですね」
「俺のは特に」
「特に?」
「薄い」
「中身が?」
「財布が」
「中身も」
ニキが言った。
「黙れ」
店員は笑いを噛み殺した。
「昨日はどちらのお席でした?」
「あそこ」
トウマが指差す。
天井。
昨日、反転後に座った席が、今は頭上にある。
「反転またぎでしたよね」
「覚えてる?」
「バーガーを天井に置いていかれた方ですよね」
「言い方」
「すみません」
「いや合ってるけど」
店員が長い回収棒を持ってくる。
昨日も見た棒。
先端の鉤を、天井の椅子の下へ滑らせる。
「ありませんね」
「テーブルの裏」
「ないです」
「椅子の隙間」
「ないですね」
「じゃあどこだ」
ニキが上を見た。
「反転した時、落としたなら」
「うん」
「昨日の上に落ちたんじゃない?」
トウマも上を見る。
「今の上じゃん」
「そう」
「じゃ天井だろ」
「店の天井じゃなくて」
ニキは窓の外を指差した。
◆
店を出た。
街路の脇に、落とし物回収所がある。
赤い箱。
黄色い箱。
青い箱。
それぞれ矢印が付いている。
《午前落下物》
《午後落下物》
《浮遊物》
トウマは黄色を開けた。
靴。
鍵。
手袋。
ボルト。
弁当箱。
子どもの玩具。
義歯。
「何で義歯落とすんだよ」
「くしゃみ?」
「反転で?」
「知らない」
財布はない。
「赤は?」
「昨日午後だから黄色」
「反転中に落としたなら?」
二人で青を見る。
《浮遊物》
「これ?」
「かも」
開ける。
空だった。
「ない」
「ないね」
「五十八が」
「財布そのものも心配して」
トウマは箱を閉めた。
その時。
箱の内側で、
からん。
音がした。
「ん?」
もう一度開ける。
空。
閉める。
からん。
開ける。
空。
「何か入ってる」
「見えないね」
「底、二重?」
トウマはしゃがんだ。
箱の下へ手を入れる。
何もない。
側面。
背面。
「回収所壊すなよ」
「壊してない」
箱を少し揺らす。
からん。
上から聞こえた。
二人とも顔を上げる。
青空。
建物。
午前側の街。
何もない。
「……今、上だったよな」
「うん」
からん。
また。
今度は、もっと遠い。
◆
街には落下防止網がある。
反転時に固定し忘れた小物が、いきなり空へ飛んでいかないよう、建物の間へ何層も張られている。
午前側。
午後側。
反転移行層。
管理員は昼飯を食べていた。
「財布?」
「はい」
「色」
「黒」
「四角」
「はい」
「薄い」
「はい」
「大体財布はそうだな」
「さっきも言われました」
「今日は三つ取れてる」
管理員が端末を見る。
「茶。赤。透明」
「透明な財布って何ですか」
「俺に聞くな」
「黒は?」
「ない」
「昨日は?」
「午後落下物は回収済み」
「浮遊物」
管理員の手が止まった。
「浮遊?」
「反転中に落としたかもしれなくて」
「ああ」
管理員は箸を置いた。
「それならまだ上だ」
「上?」
「移行層」
指差す。
頭上、百メートルほど。
建物と建物の間。
薄い金属網が陽を反射している。
「反転の切り替わりで速度が足りない物は、たまにあそこへ引っ掛かる」
「取れます?」
「次の反転で落ちてくる」
「あと何時間?」
「五時間くらい」
「昼飯終わってる」
「財布なしでも飯は食えるだろ」
「割引券が」
「知らん」
管理員は箸を持ち直した。
◆
「もう払えよ」
「嫌だ」
「五十八だよ」
「五十八だからだよ」
「意味分かんない」
ぱんでむへ戻った。
反転まで二時間以上。
今日は余裕しかない。
注文端末の前で、トウマは腕を組んでいる。
「端末決済なら財布いらない」
「だから割引券がない」
「五十八円のために昼飯抜くの?」
「そこまで言ってない」
「じゃ払う?」
「……」
「払う?」
「……」
「トウマ」
「うるさいな!」
端末を叩く。
圧肉バーガー。
硬菜チップ。
炭酸水。
昨日と同じ。
《合計 580》
決済画面。
トウマは端末を近づけた。
ぴ。
《お支払い 522》
「え」
止まった。
「何?」
「五十八引かれた」
「割引?」
画面を見る。
《落下物預かり割引 10%》
「何これ」
店員を呼ぶ。
「すみません」
「はい」
「これ」
「ああ」
店員は普通に頷いた。
「落下物預かりですね」
「俺、預けてないです」
「預かってますよ」
「どこに?」
店員が天井を指差した。
トウマも見る。
何もない。
「……どこ?」
「反転後にお返しします」
「店が持ってるの?」
「はい」
「俺の財布?」
「たぶん」
「たぶん?」
「確認できないので」
「じゃ何で俺のだって」
「お客様の会計に付いてますから」
店員はそれだけ言って、厨房へ戻った。
トウマはニキを見る。
「どういうこと」
「得したじゃん」
「そこじゃない」
「五十八」
「そこだけど」
◆
食べ終わった。
今日は熱いうちに全部食べられた。
昨日よりうまかった。
「早く来て正解だったな」
「財布なくしたけどね」
「それは昨日」
「昨日の失敗が今日来てる」
「言い方やだな」
仕事へ戻る。
午後。
外壁作業。
夕方。
反転十五分前。
トウマは管理員のところへ行った。
「来たか」
「財布」
「覚えてたか」
「当たり前です」
管理員が回収網を指差す。
「反転したら網から落ちる。下で待て」
「どっちが下?」
「反転後の下」
「今の上?」
「そう」
「ややこしい」
「生まれて何年だ」
「二十六」
「そろそろ慣れろ」
警告音。
固定索を腰へ繋ぐ。
街が静かになる。
風に乗っていた紙片が網へ貼りついた。
反転。
一瞬。
腹が軽くなる。
空が足元へ回る。
建物が上下を交換する。
網に引っ掛かっていた物が、一斉に離れた。
鍵。
紙。
工具。
片方の靴。
ゆっくり加速しながら、新しい地面へ落ちてくる。
「黒!」
トウマが見つけた。
財布。
「あれ!」
「待て」
管理員が回収竿を構える。
財布が落ちる。
三十メートル。
二十。
十。
竿を伸ばす。
届く。
はずだった。
財布は、止まった。
「……」
空中。
昨日のバーガーと同じ高さ。
昨日と同じように、
上にも下にも行かない。
「まただ」
トウマが言った。
「何が」
「昨日も」
財布へ手を伸ばす。
届かない。
管理員が竿でつつく。
財布が横へ滑る。
「何だこれ」
「昨日、バーガーもこうなった」
「店の?」
「はい」
「ぱんでむ?」
「はい」
管理員が竿を引いた。
「じゃ店に持ってけ」
「何で」
「俺の担当じゃない」
「そういう問題?」
「落ちてないから落下物じゃない」
「浮いてる」
「浮遊物でもない」
「浮いてるじゃん」
「浮遊物箱から出てきてない」
「役所みたいなこと言うなよ!」
「管理所だよ」
◆
結局、財布は回収竿で押した。
空中を滑った。
押すたび進む。
重さがないのに、勢いもつかない。
二人で交互に押した。
百メートル。
通行人に見られた。
子どもに指差された。
途中でニキに会った。
「何してるの」
「財布運んでる」
「手で持てば」
「持てたらそうしてる!」
三人になった。
ぱんでむまで押した。
入口。
財布が膜扉を通過した瞬間。
落ちた。
ぱたん。
床へ。
三人で見た。
トウマが拾う。
「重い」
「財布だからね」
「中身」
開く。
金。
身分証。
割引券。
全部ある。
「よかったじゃん」
「よくない」
トウマは割引券を抜いた。
一割引。
昨日まで使っていた紙。
端に小さな穴が開いている。
「こんなのあった?」
「知らない」
穴。
丸い。
針で刺した程度。
裏返す。
もう一つ。
その隣にも。
三つ。
一直線。
店員が覗き込んだ。
「あ」
「何ですか」
「反転印ですね」
「何それ」
「次から使えます」
「何に」
「反転またぎ」
「だから何ですか、それ」
店員は少し困った顔をした。
「反転中に店の商品を持っていると、たまに付くんです」
「財布は店の商品じゃない」
「割引券が入ってます」
「それ店の商品扱いなの?」
「たぶん」
「たぶん多いな、この店!」
ニキが笑った。
管理員はもう帰っていた。
トウマは割引券を見た。
「で、何ができるの」
「反転を三回またぐと」
店員が言う。
「上下どちらの入口からでも、いつでもご来店いただけます」
「今も入れるだろ」
「今ある入口からは」
「……?」
店員は天井を見た。
トウマも見た。
午後用の天井。
照明。
固定された椅子。
その間。
扉が一枚あった。
昨日はなかった。
今日の昼にもなかった。
赤い取っ手。
黄色い枠。
ぱんでむの入口。
天井に付いている。
「何あれ」
「入口です」
「どこから?」
「上から」
「上の何」
店員は答えなかった。
厨房から番号を呼ぶ音がした。
「百四十一番!」
店員がそちらを向く。
「あ、すみません」
行ってしまった。
トウマは天井を見た。
扉。
ニキも見る。
「開ける?」
「やだよ」
「珍しい」
「明日仕事」
「明日も仕事だね」
「外壁だし」
「毎日外壁じゃん」
「だからだよ」
トウマは財布をポケットへ入れた。
今度はファスナーを閉めた。
「帰る」
「開けないの?」
「開けない」
「気にならない?」
「なる」
「じゃあ」
「だから開けない」
店を出た。
十歩。
トウマは止まった。
「……ニキ」
「何」
「明日」
「うん」
「昼、三十分早く出よう」
ニキは笑った。
「開けるんじゃん」
「今日は開けない」
二人は歩き出した。
後ろで、
扉の鈴が鳴った。
店からではない。
ずっと上からだった。




