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第23話「ひっくり返る前に」


 十二時の反転まで、あと十一分だった。


「間に合う」


 トウマは走った。


 正確には、走るしかなかった。


 頭上では信号機が黄色く点滅し、通りの両側から固定索がせり出している。店先の植木鉢には蓋が閉まり、屋台の主人が鍋を天板へ締め付けていた。


《重力反転まで 00:10:42》


 街路表示が赤くなる。


「十分快あるじゃん」


 隣を走るニキが言った。


「注文して食う時間がない」


「持ち帰れば」


「午後、外壁だぞ」


「ああ」


 それで通じた。


 外壁作業中に食事を開封する馬鹿はいない。


 上へ落ちたポテトを追って作業索を伸ばした新人が、去年一人いた。


 ポテトは回収された。


 新人は三時間怒られた。


     ◆


 ぱんでむの入口には、床と天井の両方に扉があった。


 今は床側が開いている。


「いらっしゃいませ。反転前ラストオーダーまで三分です」


「二人!」


「店内ですか?」


「店内!」


 ニキが先に答えた。


「食える?」


「食う」


「七分だぞ」


「バーガーに七分もかける?」


「お前は噛め」


 二人で端末を叩く。


 トウマは圧肉バーガー、硬菜チップ、炭酸水。


 ニキは二層肉、熱豆、重力ゼリー。


「ゼリー頼むの?」


「反転の日だけ」


「毎日反転するだろ」


「じゃあ毎日」


 番号は百十二。


 店内では客が慌ただしく食べている。


 椅子には腰帯。


 テーブルには皿留め。


 照明は床と天井に同じものが並び、上を見ると、今は使われていないもう一組のテーブルと椅子が逆さに固定されている。


 反転後は、あちらが床になる。


「百十二番!」


「早っ」


「走れ」


 もう走っている。


     ◆


 残り四分十二秒。


 トウマは包みを剥いだ。


「いただきます」


 一口。


 熱い。


「っ」


「遅い」


「熱いんだよ」


「だから重力ゼリーにすれば」


「それ飯じゃないだろ」


「飯だよ」


 ニキは透明な塊を吸い込んだ。


 中で青い粒が上下へ往復している。


「それ何がうまいの」


「反転すると分かる」


「毎日食ってるのに?」


「毎日分かる」


 残り三分。


 店員が声を張る。


「反転準備をお願いします!」


 客たちが慣れた手つきで腰帯を締める。


 飲み物には蓋。


 皿は留め具へ。


 子どもが一人、天井へ向かって手を振った。


 天井側の座席には、さっきまでの客が残した紙片が一枚、固定具に挟まっている。


「食い切れない」


「言ったじゃん」


 トウマのバーガーは半分。


「包め」


「外壁だって」


「じゃ捨てる?」


「やだ」


「じゃ食え」


「食ってる!」


 残り一分。


 警告音が鳴った。


 低い三連音。


 店の膜窓の外で、通行人が街路の固定索へ身体を繋ぐ。


 自転車が地面へ伏せられる。


 配送箱が閉じる。


 鳥だけが、何も気にせず飛んでいた。


「鳥ってずるいよな」


 トウマが言う。


「今それ?」


「だって反転関係ないじゃん」


「翼あるからね」


「俺も欲しい」


「外壁班辞めれば?」


「翼の話だよ」


 残り十秒。


 トウマは諦めてバーガーを皿留めへ押し込んだ。


 腰帯を締める。


「五」


 ニキが数える。


「四」


 店内の声が重なる。


「三」


「二」


「一」


 重さが消えた。


     ◆


 一瞬だけ、身体の中身が置いていかれる。


 胃が浮く。


 舌の上の肉汁が丸くなる。


 トウマの髪が立ち上がった。


 次の瞬間。


 上が下になった。


「うおっ」


 腰帯が身体を受け止める。


 固定していなかった紙ナプキンが何枚も舞い、旧天井へ落ちていく。


 店員たちは腰帯を外した。


 新しい床へ降りる。


 椅子を引く。


 今まで頭上にあったカウンターの照明が点いた。


《午後営業を開始します》


「毎回思うけど早いな」


「何が?」


「切り替え」


「店なんだから」


 ニキは腰帯を外し、新しい床へ着地した。


 重力ゼリーを見る。


 青い粒が、さっきとは反対側へ沈んでいる。


「ほら」


「何が」


「うまい」


「見ても分かんねえ」


 トウマも帯を外す。


 そして、旧床側を見た。


「あ」


 バーガー。


 皿留めに固定したままだ。


 今は天井。


「……」


「取ってくれば?」


「どうやって」


「店員さんに棒借りる」


「恥ずかしい」


「捨てる?」


「やだ」


 店員を呼ぶ。


「すみません」


「はい」


「あれ」


 指差す。


 天井のバーガー。


 店員は慣れていた。


「ああ、反転またぎですね」


 長い回収棒を持ってくる。


「よくあります?」


「毎日」


「俺だけじゃないんだ」


「今日は七人目です」


「多くない?」


 棒の先が皿留めを外す。


 バーガーが落ちる。


 店員が受け止める。


 はずだった。


 落ちなかった。


     ◆


 三人で見上げた。


 バーガーは旧床から離れている。


 皿にも触れていない。


 それなのに、空中に止まっていた。


 半分食べた圧肉バーガー。


 包み紙の端だけが揺れている。


「……固定具?」


 トウマが聞く。


「外しました」


「糸?」


「ありません」


 ニキが椅子へ上がった。


「触るよ」


「お客様、危ないので」


「届く」


 指先でバーガーをつつく。


 動いた。


 ゆっくり。


 横へ。


 上にも下にも落ちない。


「何これ」


 店員が回収棒で押す。


 バーガーは空中を滑った。


 トウマの前まで来る。


 手を伸ばす。


 掴めた。


 重さが戻った。


「……普通だ」


「食うの?」


 ニキが聞く。


「食うよ」


「今の見て?」


「五百八十払った」


「そこ?」


「そこだよ」


 トウマは残りをかじった。


 冷めていた。


 味は普通だった。


     ◆


「遅刻だ」


 店を出てから気づいた。


 午後側の街路を二人で走る。


 さっきまで頭上だった歩道。


 逆さだった看板。


 すべてがいつもの午後の向きになっている。


「バーガー待ったせい」


「お前がゼリー食ってたせいでもある」


「関係ない」


「ある」


 外壁昇降機へ飛び込む。


 扉が閉じる直前、トウマはレシートをポケットへ押し込んだ。


 監督には三分遅れで怒られた。


 バーガーの話はしなかった。


 話しても、たぶん「次はちゃんと固定しろ」で終わる。


 その夜。


 作業着を洗う前にポケットを空にした。


 工具片。


 固定索の札。


 ぱんでむのレシート。


 注文時刻、十一時五十四分。


 会計、五百八十。


 圧肉バーガー。


 硬菜チップ。


 炭酸水。


 どれも合っている。


 裏側に、店の注意書きがあった。


《反転時は、すべての所持品を固定してください》


 その下。


 小さな印字が一行だけ増えていた。


《当商品には上下がありません》


 トウマは少し考えた。


 レシートを丸めて捨てた。


 明日は十一時四十分に店へ行こうと思った。


 反転まで二十分あれば、ちゃんと熱いうちに食べられる。


 そっちのほうが大事だった。

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