第22話「三枚じゃない」
第三鰓が治った日、娘は診療所の出口で言った。
「三枚」
「診察結果より先にそれ?」
「先生、もう辛いのいいって」
「『少しなら』ね」
「三枚は少し」
「数を覚えたぶん悪化してる」
ミナが歩き出すと、娘は四本脚で横へ並んだ。
「じゃあ二枚」
「一枚」
「間を取って二枚」
「何と何の間?」
「三と一」
「そういう時だけ算術できるのね」
水路の上を診療艇が抜け、白い気泡が二人の髪を散らした。
「一枚。食べて平気なら次から考える」
「二枚」
「帰る?」
「一枚でお願いします」
急に丁寧になった。
◆
ぱんでむは夕食前で空いていた。
膜扉を抜けた娘は、注文機ではなく窓際へ向かう。
「席は後」
「取るだけ」
「前脚かけない」
「分かってる」
七番席の背に触れ、空いていることを確認して戻ってくる。
カウンターではカイが赤潮ソースを補充していた。
三枚多く書いたせいで、納品箱にも三枚多く入っている。
当然だった。
帳簿どおりに届いただけだ。
カイはその三枚を一番奥へ押し込んだ。
「殻焼きバーガー。海藻ポテト」
娘が注文機を叩く。
「赤潮ソース三枚」
「一枚」
横からミナが二枚消した。
「ちょっと!」
「約束」
「治ったのに」
「治ったから試すの」
「お父さんは三枚だった」
指が止まる。
ミナより先に、カイが顔を上げた。
七番席。
母親。
子ども。
胸ポケットには、折った赤い空袋がまだ入っている。
「三枚はやめとけ」
カイが言った。
娘が振り向く。
「店員さんまで」
「店員だから言ってる」
「大人はみんな三枚駄目って言う」
「三枚食う大人も止める」
「お父さんは食べてた」
「じゃあその人も止める」
娘は口を尖らせた。
ミナは笑わなかった。
「……たぶん、止めても食べます」
「一番面倒な客だな」
「そうなんです」
それだけで、ミナの口元が少し緩んだ。
◆
七番席。
娘は赤潮ソースの袋を両前脚で持った。
「開けるよ」
「ちょっとだけ」
「全部かける」
「半分」
「一枚なのに半分?」
「嫌ならゼロ」
「半分でお願いします」
また丁寧になった。
ぺり。
赤いソースを半分だけ垂らす。
娘は殻焼きバーガーをかじった。
止まった。
ミナが身を乗り出す。
「鰓?」
娘は首を振る。
「辛い」
「だから言ったでしょ」
「違う」
もう一口。
目を細める。
「これ、わたし嫌いかも」
「……え?」
「辛すぎる」
ミナは数秒、娘を見た。
それから吹き出した。
「何で笑うの!」
「だって、あんなに三枚三枚って」
「知らなかったんだもん!」
「十一年生きて初めて知ったね」
「前も食べてた!」
「前は甘藻だったでしょ」
「でも辛かった!」
「味の後ろが?」
娘は黙った。
バーガーを見る。
赤い筋。
一口目の歯形。
「……あれは、おいしかった」
ミナの笑いが止まった。
「うん」
「これとは違う」
「うん」
娘は赤潮ソースを端へ押した。
「甘いの取ってくる」
「座ってて。お母さんが」
「自分で行く」
椅子を蹴るように離れ、調味料台へ泳いでいく。
少し怒っている。
ミナは追わなかった。
窓の向こうで清掃鯨の腹が光を塞いだ。
暗くなった卓上に、赤潮ソースが半枚。
その横に空いた席。
ミナは一度だけそこを見て、娘の残したポテトを一本食べた。
「床に落としてないからね」
誰にともなく言った。
◆
「甘藻、二枚もらった」
「一枚でいいでしょ」
「一枚お母さん」
「私?」
「半分こ」
娘は一枚をミナへ滑らせた。
もう一枚を自分のバーガーへ絞る。
赤い辛味の上へ、緑の甘藻が重なった。
一口。
「……これ」
「どう?」
「おいしい」
「じゃあ次からそれね」
「赤いのちょっと、甘いのいっぱい」
「注文が面倒」
「大人だから好みが細かいの」
「十一歳」
「ほぼ大人」
娘はもう一口食べた。
「お父さん、これ嫌いだったかな」
「甘藻?」
「うん」
「嫌いじゃないよ」
「でも赤いの三枚だった」
ミナは甘藻ソースの袋を開けた。
「あなたが小さい時、お父さんのバーガーからソース舐めたことがあったの」
「辛いやつ?」
「そう。大泣き」
「覚えてない」
「でしょうね」
「それで?」
「次にここへ来た時から、お父さん、自分の三枚のうち一枚だけ中身を甘藻に替えてた」
娘の咀嚼が止まる。
「何で」
「あなたがまた盗るから」
「盗ってない」
「盗ったの」
「三歳だから無罪」
「便利ね、三歳」
娘は自分のバーガーを見た。
赤が少し。
緑が多い。
「じゃあ、お父さん三枚じゃないじゃん」
「袋は三枚」
「ずる」
「あなたにだけね」
娘はしばらく何も言わなかった。
それからバーガーを両前脚で持ち直した。
「これ、わたしの味」
「そう」
「お父さんのじゃない」
「そうね」
最後の一口を食べた。
◆
帰り際、娘はカウンターへ寄った。
「次から」
「ん?」
カイが補充箱から顔を上げる。
「赤いの一枚。甘いの二枚」
「覚えろって?」
「常連だから」
「名前も知らない」
「七番の人」
「席で名乗るな」
「じゃあ覚えて」
娘は満足して膜扉へ泳いでいった。
ミナが小さく頭を下げ、追う。
カイは端末の常連メモを開いた。
少し考える。
《七番席の子 赤一・甘二》
入力する。
保存。
胸ポケットが、かさりと鳴った。
取り出した空袋には、もう文字はない。
三本の赤い線だけ。
カイはそれを補充箱の底へ入れた。
赤潮ソースではなく、甘藻ソースの箱へ。
その日の閉店後。
甘藻ソースは、帳簿より一枚だけ少なかった。




