第21話「いつもの三枚」
赤潮ソースを四枚入れる客を、カイは嫌いだった。
「三枚」
「四枚」
「三枚までです」
「昨日四枚くれた」
「昨日の担当は知りません」
「兄ちゃん堅いなあ」
「鰓焼けても責任取れませんので」
「俺の鰓だよ」
「店の床で痙攣されるのは店の問題です」
客は笑った。
六本ある腕のうち一本を諦めたように上げる。
「じゃ三枚」
「最初からそうしてください」
カイは赤潮ソースを三枚、トレーの右上へ揃えた。
この店で働き始めて十三年。
注文を聞く。
包む。
渡す。
床の脱殻片を掃く。
水温を見る。
喧嘩を止める。
時々、子どもが排水槽へ入る。
大体そんな仕事だった。
「七十八番です」
トレーを押し出す。
客が受け取る。
「ありがと」
「どうぞ」
次。
次。
次。
夕食時の店内は、水路より騒がしい。
揚げ槽の泡。
食器殻の触れ合う音。
客の声。
小さな尾が椅子の脚を叩く音。
カイはそれらを聞き分けながら手を動かした。
そのうち一つだけ、
最近、妙な音が混じる。
ぺり。
薄い袋を剥がす音。
赤潮ソース。
客席側からだった。
◆
「八十一番」
返事がない。
「八十一番のお客様」
まだない。
カイは番号札を見る。
注文は、
殻焼きバーガー。
海藻ポテト。
赤潮ソース三枚。
「放送かけます?」
隣の新人が聞いた。
「もう一回」
「八十一番のお客様」
店内を見回す。
該当しそうな客はいない。
「持ち帰り?」
「店内」
「席予約は?」
「窓際」
カイは手を止めた。
「どの窓際」
「七番」
新人が端末を見せる。
七番席。
昨日、母娘が座っていた席だった。
「……注文時刻」
「十八時十一分」
「今は?」
「十八時十三分」
注文機から自動送信された記録だった。
決済済み。
受取人登録もある。
「名前は?」
「ないです」
「会員番号」
「ないです」
「決済元」
「店内預かり」
カイは眉を寄せた。
「そんな会計ないだろ」
「ありますよ」
新人が画面を指す。
確かにある。
《店内預かり》
「いつから」
「知りません」
カイは答えなかった。
知らない機能を新人に聞くのが少し悔しかった。
十三年いる。
端末交換も三回見た。
メニュー改定はもっとだ。
だが《店内預かり》は知らない。
「とりあえず置いといて」
「廃棄時間来ますよ」
「その時考える」
◆
八十一番のトレーは、受取台の端に置かれた。
五分。
十分。
誰も来ない。
バーガーの包みから出ていた泡が減る。
揚げたての海藻ポテトも少し沈む。
「廃棄します?」
「まだ」
「もう十二分です」
「客が水路で詰まってるかも」
「十八時台ですよ」
「だから詰まるんだろ」
「そうですけど」
カイはトレーを見た。
赤潮ソース三枚。
きっちり重なっている。
一番上だけ、
端が少し折れていた。
「俺、折った?」
「何を?」
「これ」
「知りません」
「お前が置いた?」
「カイさんが」
「だよな」
一枚取る。
裏を見る。
何もない。
戻す。
三枚。
「気になるんですか」
「別に」
「めっちゃ見てますけど」
「働け」
「はい」
新人は笑って離れた。
◆
十九分。
廃棄表示が赤くなる。
「今度こそ捨てますよ」
「分かった」
カイはトレーを持ち上げた。
少し軽い。
「……?」
「どうしました?」
「いや」
ポテト。
ある。
バーガー。
ある。
飲料なし。
ソース。
二枚。
カイは数え直した。
一枚。
二枚。
「三枚でしたよね」
新人が言う。
「お前も覚えてる?」
「そりゃ」
「取った?」
「取ってません」
「俺も取ってない」
二人で床を見る。
赤い袋はない。
受取台の下。
調味料槽の脇。
排水溝。
ない。
「誰か持ってったんじゃ」
「客、ここ入れないだろ」
受取台は厨房側だった。
客が腕を伸ばしても届かない。
カイは残り二枚を指で挟んだ。
「……捨てるぞ」
「はい」
廃棄槽へ向かう。
その途中。
ぺり。
後ろで音がした。
二人とも振り返った。
八十一番のバーガー。
包み紙が少し開いている。
「カイさん」
「見えてる」
戻る。
包みを持ち上げる。
端が破れていた。
ひと口ぶん。
中身が減っている。
「……誰か食べました?」
「誰が」
「知りませんよ」
「俺もだよ」
新人の鰓が小さく開いた。
カイはバーガーを置く。
「触るな」
「触りません」
ぺり。
今度はソース。
残っていた二枚のうち、一枚が勝手に膨らんだ。
袋の角から細い赤が滲む。
少しずつ、
中身が減っていく。
誰も絞っていない。
床にも落ちない。
ただ袋だけが平たくなる。
店内のどこかで、
子どもが笑った。
カイは客席を見る。
七番席。
空いている。
窓の向こうを清掃鯨が通過した。
大きな影。
一瞬だけ店内が暗くなる。
明るく戻った時、
八十一番のトレーには、
赤潮ソースが三枚あった。
「……」
「増えました?」
「数えるな」
「いや三枚です」
「数えるなって」
「昨日の親子と同じですね」
カイが新人を見る。
「何が」
「七番席」
「昨日?」
「私、片づけました」
新人は客席を指した。
「女の人と、子ども」
「知ってる」
「ソース三枚残ってたでしょう」
「ああ」
「裏に文字あったやつ」
カイの手が止まった。
「何で知ってる」
「私が見つけたから」
「何て書いてあった」
「確か……」
新人は少し考えた。
「『からいの抜きで』」
カイは黙った。
「あと別の字で、『三枚』」
「それ、どこやった」
「未使用箱に戻しましたよ」
新人は調味料棚を見る。
赤潮ソース。
同じ袋が何百枚も詰まっている。
「どれか分からないですけど」
「戻したのか」
「未開封でしたし」
「書いてあったのに?」
「落書きでしょ」
カイは棚を見た。
何百枚。
赤い袋。
全部同じ。
区別などつかない。
◆
「カイさん」
「ん」
「八十一番」
振り返る。
トレーが空だった。
包み紙。
ポテトの殻。
赤潮ソースの空袋三枚。
食べ終わっている。
「……いつ」
「見てません」
「俺も」
二人とも数歩しか離れていなかった。
カイは空袋を拾った。
一枚。
二枚。
三枚。
全部開いている。
裏返す。
一枚目。
何もない。
二枚目。
何もない。
三枚目。
《ごちそうさま》
カイの指が止まった。
「昨日の字?」
新人が覗き込む。
「知らない」
「見せてください」
「やだ」
「何で」
「何となく」
カイは袋を折った。
二つに。
もう一度。
細長く。
そのまま制服の胸ポケットへ入れる。
「捨てないんですか」
「後で」
「規則違反ですよ」
「十三年やって初めてだから許せ」
「何が初めてなんですか」
「客の忘れ物だよ」
「客、いませんでしたけど」
カイは返事をしなかった。
◆
閉店後。
床を洗う。
調理槽を止める。
珊瑚灯を半分落とす。
新人は先に帰った。
カイは最後に七番席を拭いた。
昨日と同じ窓際。
清掃鯨はもう来ない。
外には夜の水路だけが青く流れている。
テーブルの端に、小さな傷があった。
三本。
並んでいる。
爪で引っ掻いた程度。
古い傷だ。
「こんなのあったか」
布で擦る。
消えない。
もう一度。
当然、消えない。
胸ポケットが、かさりと鳴った。
赤潮ソースの空袋。
カイは取り出した。
裏を見る。
《ごちそうさま》
文字が滲んでいた。
水が付いたわけではない。
インクだけが、ゆっくりほどけていく。
一文字ずつ。
消える。
最後に残ったのは、
三本の赤い線だった。
カイはテーブルの傷を見る。
三本。
袋を見る。
三本。
少し考えて、
袋を捨てずにもう一度胸へ戻した。
翌日の赤潮ソース補充数を、
三枚だけ多く書いた。




