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20/21

第20話「からいの抜きで」


 娘の第三鰓が腫れた。


「だから今日は辛いのなし」


「ちょっとならいい」


「なし」


「一枚だけ」


「何を一枚?」


「辛いやつ」


「単位からして分かってないでしょ」


 ミナは娘の頭を押した。


 ぬるり、と逃げる。


「やめて」


「逃げるな」


「鰓さわんないで」


「じゃあちゃんと歩いて」


 娘は四本ある脚のうち後ろ二本だけで立ち、前脚をぶらぶらさせながら進んだ。


 器用なものだ。


 ただし人混みでは邪魔だった。


「普通に歩く」


「これも普通」


「家でやって」


 第三区水路は夕方の帰宅客で詰まっていた。


 頭上を貨物魚が三匹、腹の発光器を点滅させながら通り過ぎる。


 水温二十二度。


 潮流弱。


 街灯藻はすでに開き始めていた。


 ミナは腕時計を見る。


「あと十二分」


「間に合う?」


「あなたが歩けば」


 娘が四本脚へ戻った。


 速い。


「待って!」


 今度はミナが追う。


     ◆


 ぱんでむは水路の底にあった。


 赤と黄色の珊瑚灯。


 入口には、


《本日 稚魚割》


 と発光文字が泳いでいる。


「わたし稚魚?」


「十二歳まで」


「もう十一」


「だから?」


「ほぼ大人」


「鰓腫らして辛いの食べたがる大人はいません」


「いるよ」


「どこに」


「お父さん」


 ミナは黙った。


「……あれは駄目な大人」


 娘が笑った。


 二人で膜扉を抜ける。


 水流が一度、身体を撫でた。


 店内は少し温かい。


 調理槽から油泡が上がり、天井の吸気珊瑚へ吸われていく。


 席には仕事帰りの客。


 六本腕で端末を操作しながら食べる者。


 殻を半分脱いで背中を乾燥槽へ入れている者。


 まだ尾の残る子どもを三匹連れた家族。


「空いてる」


 娘が窓際を指した。


「先に注文」


「席取られる」


「取られたら別の席」


「ここがいい」


「何で」


 娘は答えず、先に泳いでいった。


「ちょっと!」


 窓際の席へ前脚を一本引っかける。


「取った!」


「行儀悪い」


「取れたからいい」


「よくない」


 ミナは娘を引き戻した。


     ◆


 注文機の前。


「いつもの」


「今日は駄目」


「何で」


「さっき言ったでしょ」


 娘のいつもは、


 殻焼きバーガー。


 海藻ポテト。


 赤潮ソース三枚。


 赤潮ソースは、辛い。


 大人でも鼻腔を閉じるくらい辛い。


「一枚」


「なし」


「半分」


「なし」


「匂いだけ」


「それ注文じゃない」


 娘が頬を膨らませる。


 左右の鰓蓋まで膨らんだ。


「ほら、腫れてる」


「これは怒ってるの」


「さらに悪い」


 ミナは注文を変更した。


 殻焼きバーガー。


 海藻ポテト。


 赤潮ソースなし。


 代わりに甘藻ソース。


「最悪」


「食べなくていいよ」


「食べる」


「じゃあ最悪じゃない」


「食べるけど最悪」


「便利な言葉ね」


 自分には普通の白身バーガー。


 二人分。


 注文完了。


 札は七十三番。


     ◆


「この席、昔も座ったよね」


 娘が言った。


 窓の外を、小型の清掃鯨がゆっくり横切っている。


「そうだっけ」


「座った」


「いつ?」


「ちっちゃいとき」


「ずっとちっちゃいけど」


「もっと」


 娘が前脚二本を狭めた。


「これくらい」


「そんなに小さくない」


「お父さんいた」


 ミナの手が止まった。


 卓上の塩泡器へ伸ばしかけた指を戻す。


「……いたね」


「ここだったよ」


 娘は窓を指した。


「鯨が来た」


「覚えてるの?」


「うん」


「三歳くらいだったよ」


「覚えてる」


 清掃鯨が尾を振った。


 窓の向こうが一瞬暗くなる。


「お父さん、ポテト落とした」


「それは覚えてる」


「拾って食べた」


「それも」


「お母さん怒った」


「当然でしょ」


 二人で笑った。


 笑い終わってから、


 ほんの少し静かになった。


 七十三番はまだ呼ばれない。


     ◆


「お待たせしました」


 店員がトレーを運んできた。


「七十三番のお客様」


「はい」


 娘が身を乗り出す。


「ソースは?」


「甘藻です」


「……」


 露骨に肩が落ちた。


 ミナは受け取る。


「ありがとうございます」


「ごゆっくりどうぞ」


 トレーを置く。


 娘は包みを開いた。


 温かな泡が散る。


 殻焼きバーガー。


「いただきます」


 一口。


「……」


「どう?」


「普通」


「おいしい?」


「普通」


「じゃあ一口ちょうだい」


「やだ」


「おいしいんじゃん」


「普通だけどわたしの」


 ミナも自分のバーガーを食べた。


 窓の外。


 小魚の通勤群が光の帯になって流れる。


 娘は三口目で、急に止まった。


「何?」


「辛い」


「え?」


「辛い」


「そんなわけ」


 娘がバーガーを差し出す。


 ミナは端を少しかじった。


「……甘いけど」


「辛いよ」


「どこが」


「後ろ」


「後ろ?」


「味の後ろ」


 娘は舌を出した。


 青白い舌。


 異常はない。


「痛い?」


「痛くない」


「鰓は?」


「平気」


「じゃあ食べるのやめる?」


「やだ」


 また食べる。


 眉を寄せる。


「やっぱ辛い」


「やめなさいよ」


「おいしい」


「どっちなの」


 娘は答えず、もう一口。


 今度は笑った。


「お父さんの味」


 ミナは咀嚼を止めた。


「……何?」


「これ」


「お父さん?」


「うん」


「何言ってるの」


「お父さん、赤いやつ三枚だったでしょ」


 その通りだった。


 辛いものが好きだった。


 三枚。


 いつも三枚。


 医者に止められても三枚。


 ミナが一枚抜くと、


「一枚くらいいいだろ」


 と言って自分で戻した。


「そんなの、覚えてるの?」


「覚えてるよ」


「三歳で?」


「知らない」


 娘はまた食べた。


「でもこれ」


 ミナも娘のバーガーをもう一口もらった。


 甘い。


 辛くない。


 ただの甘藻ソース。


「お母さんにはしない?」


「しない」


「本当に?」


「うん」


 娘は嬉しそうに食べている。


 ミナは娘の皿を見る。


 赤いソースなど一滴もない。


     ◆


「ごちそうさま」


 娘が最後のポテトを食べた。


「鰓は?」


「平気」


「帰ったら薬」


「えー」


「約束」


「はい」


 娘が椅子から降りる。


「また来ようね」


「治ったらね」


「今度は三枚」


「一枚」


「三枚」


「ゼロ枚」


「増やす交渉なのに減ってる!」


「親との交渉はそういうものです」


 二人で膜扉へ向かった。


 娘が途中で振り返った。


「どうしたの?」


「別に」


「忘れ物?」


「ううん」


 窓際の席。


 二人が使ったテーブル。


 空になった包み紙。


 その横に、


 小さな赤いソース袋が三枚、


 きれいに重ねて置かれていた。


「お母さん」


「何?」


「早く」


「はいはい」


 娘はもう見ていなかった。


 ミナも、


 何も言わなかった。


 膜扉を抜ける。


 冷たい水路の水が身体を包んだ。


 娘の第三鰓は、


 来たときより少しだけ腫れが引いていた。


 店内では店員がテーブルを片づける。


 空の包み。


 トレー。


 飲料殻。


 そして赤潮ソース三枚。


 店員はそれを拾い、


 未使用品の箱へ戻しかけた。


 一枚だけ、


 裏側に文字があった。


《からいの抜きで》


 店員は首を傾げた。


 その下には、


 別の筆跡で、


《三枚》


 と書かれていた。

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