第20話「からいの抜きで」
娘の第三鰓が腫れた。
「だから今日は辛いのなし」
「ちょっとならいい」
「なし」
「一枚だけ」
「何を一枚?」
「辛いやつ」
「単位からして分かってないでしょ」
ミナは娘の頭を押した。
ぬるり、と逃げる。
「やめて」
「逃げるな」
「鰓さわんないで」
「じゃあちゃんと歩いて」
娘は四本ある脚のうち後ろ二本だけで立ち、前脚をぶらぶらさせながら進んだ。
器用なものだ。
ただし人混みでは邪魔だった。
「普通に歩く」
「これも普通」
「家でやって」
第三区水路は夕方の帰宅客で詰まっていた。
頭上を貨物魚が三匹、腹の発光器を点滅させながら通り過ぎる。
水温二十二度。
潮流弱。
街灯藻はすでに開き始めていた。
ミナは腕時計を見る。
「あと十二分」
「間に合う?」
「あなたが歩けば」
娘が四本脚へ戻った。
速い。
「待って!」
今度はミナが追う。
◆
ぱんでむは水路の底にあった。
赤と黄色の珊瑚灯。
入口には、
《本日 稚魚割》
と発光文字が泳いでいる。
「わたし稚魚?」
「十二歳まで」
「もう十一」
「だから?」
「ほぼ大人」
「鰓腫らして辛いの食べたがる大人はいません」
「いるよ」
「どこに」
「お父さん」
ミナは黙った。
「……あれは駄目な大人」
娘が笑った。
二人で膜扉を抜ける。
水流が一度、身体を撫でた。
店内は少し温かい。
調理槽から油泡が上がり、天井の吸気珊瑚へ吸われていく。
席には仕事帰りの客。
六本腕で端末を操作しながら食べる者。
殻を半分脱いで背中を乾燥槽へ入れている者。
まだ尾の残る子どもを三匹連れた家族。
「空いてる」
娘が窓際を指した。
「先に注文」
「席取られる」
「取られたら別の席」
「ここがいい」
「何で」
娘は答えず、先に泳いでいった。
「ちょっと!」
窓際の席へ前脚を一本引っかける。
「取った!」
「行儀悪い」
「取れたからいい」
「よくない」
ミナは娘を引き戻した。
◆
注文機の前。
「いつもの」
「今日は駄目」
「何で」
「さっき言ったでしょ」
娘のいつもは、
殻焼きバーガー。
海藻ポテト。
赤潮ソース三枚。
赤潮ソースは、辛い。
大人でも鼻腔を閉じるくらい辛い。
「一枚」
「なし」
「半分」
「なし」
「匂いだけ」
「それ注文じゃない」
娘が頬を膨らませる。
左右の鰓蓋まで膨らんだ。
「ほら、腫れてる」
「これは怒ってるの」
「さらに悪い」
ミナは注文を変更した。
殻焼きバーガー。
海藻ポテト。
赤潮ソースなし。
代わりに甘藻ソース。
「最悪」
「食べなくていいよ」
「食べる」
「じゃあ最悪じゃない」
「食べるけど最悪」
「便利な言葉ね」
自分には普通の白身バーガー。
二人分。
注文完了。
札は七十三番。
◆
「この席、昔も座ったよね」
娘が言った。
窓の外を、小型の清掃鯨がゆっくり横切っている。
「そうだっけ」
「座った」
「いつ?」
「ちっちゃいとき」
「ずっとちっちゃいけど」
「もっと」
娘が前脚二本を狭めた。
「これくらい」
「そんなに小さくない」
「お父さんいた」
ミナの手が止まった。
卓上の塩泡器へ伸ばしかけた指を戻す。
「……いたね」
「ここだったよ」
娘は窓を指した。
「鯨が来た」
「覚えてるの?」
「うん」
「三歳くらいだったよ」
「覚えてる」
清掃鯨が尾を振った。
窓の向こうが一瞬暗くなる。
「お父さん、ポテト落とした」
「それは覚えてる」
「拾って食べた」
「それも」
「お母さん怒った」
「当然でしょ」
二人で笑った。
笑い終わってから、
ほんの少し静かになった。
七十三番はまだ呼ばれない。
◆
「お待たせしました」
店員がトレーを運んできた。
「七十三番のお客様」
「はい」
娘が身を乗り出す。
「ソースは?」
「甘藻です」
「……」
露骨に肩が落ちた。
ミナは受け取る。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
トレーを置く。
娘は包みを開いた。
温かな泡が散る。
殻焼きバーガー。
「いただきます」
一口。
「……」
「どう?」
「普通」
「おいしい?」
「普通」
「じゃあ一口ちょうだい」
「やだ」
「おいしいんじゃん」
「普通だけどわたしの」
ミナも自分のバーガーを食べた。
窓の外。
小魚の通勤群が光の帯になって流れる。
娘は三口目で、急に止まった。
「何?」
「辛い」
「え?」
「辛い」
「そんなわけ」
娘がバーガーを差し出す。
ミナは端を少しかじった。
「……甘いけど」
「辛いよ」
「どこが」
「後ろ」
「後ろ?」
「味の後ろ」
娘は舌を出した。
青白い舌。
異常はない。
「痛い?」
「痛くない」
「鰓は?」
「平気」
「じゃあ食べるのやめる?」
「やだ」
また食べる。
眉を寄せる。
「やっぱ辛い」
「やめなさいよ」
「おいしい」
「どっちなの」
娘は答えず、もう一口。
今度は笑った。
「お父さんの味」
ミナは咀嚼を止めた。
「……何?」
「これ」
「お父さん?」
「うん」
「何言ってるの」
「お父さん、赤いやつ三枚だったでしょ」
その通りだった。
辛いものが好きだった。
三枚。
いつも三枚。
医者に止められても三枚。
ミナが一枚抜くと、
「一枚くらいいいだろ」
と言って自分で戻した。
「そんなの、覚えてるの?」
「覚えてるよ」
「三歳で?」
「知らない」
娘はまた食べた。
「でもこれ」
ミナも娘のバーガーをもう一口もらった。
甘い。
辛くない。
ただの甘藻ソース。
「お母さんにはしない?」
「しない」
「本当に?」
「うん」
娘は嬉しそうに食べている。
ミナは娘の皿を見る。
赤いソースなど一滴もない。
◆
「ごちそうさま」
娘が最後のポテトを食べた。
「鰓は?」
「平気」
「帰ったら薬」
「えー」
「約束」
「はい」
娘が椅子から降りる。
「また来ようね」
「治ったらね」
「今度は三枚」
「一枚」
「三枚」
「ゼロ枚」
「増やす交渉なのに減ってる!」
「親との交渉はそういうものです」
二人で膜扉へ向かった。
娘が途中で振り返った。
「どうしたの?」
「別に」
「忘れ物?」
「ううん」
窓際の席。
二人が使ったテーブル。
空になった包み紙。
その横に、
小さな赤いソース袋が三枚、
きれいに重ねて置かれていた。
「お母さん」
「何?」
「早く」
「はいはい」
娘はもう見ていなかった。
ミナも、
何も言わなかった。
膜扉を抜ける。
冷たい水路の水が身体を包んだ。
娘の第三鰓は、
来たときより少しだけ腫れが引いていた。
店内では店員がテーブルを片づける。
空の包み。
トレー。
飲料殻。
そして赤潮ソース三枚。
店員はそれを拾い、
未使用品の箱へ戻しかけた。
一枚だけ、
裏側に文字があった。
《からいの抜きで》
店員は首を傾げた。
その下には、
別の筆跡で、
《三枚》
と書かれていた。




