第2話「二人」
午後六時四十二分。
「お腹すいた?」
男が聞いた。
「うん」
後部座席から、子どもの声が返ってきた。
「ハンバーガー!」
「はいはい」
男は笑った。
今日は仕事が早く終わった。
保育園へ迎えに行って、そのまま家へ帰るつもりだった。
けれど、車に乗った途端、
「ハンバーガー!」
と始まった。
「家にご飯あるだろ」
「ハンバーガー」
「……」
「ハンバーガー!」
「分かった分かった」
父親はハンドルを切った。
駅前の店へ向かう。
別に、珍しいことではない。
子どもはハンバーガーが好きだ。
父親だって嫌いではない。
夕飯を作る手間も省ける。
今日はそれでいい。
店に入る。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
子どもが父親の手を引っ張る。
「ハンバーガー!」
「はいはい。聞こえてる」
カウンターの前まで行く。
「ご注文をどうぞ」
「ハンバーガー二つ」
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「……どうする?」
父親が子どもを見る。
「いらない」
「じゃあ、なしで」
「かしこまりました」
会計を済ませる。
番号札を受け取る。
二人で席を探す。
「こっち!」
「はいはい」
窓際の席。
子どもが先に座る。
父親が向かいに座る。
「ちゃんと座って」
「座ってる」
「椅子の上に立たない」
「立ってない」
「今、立とうとしただろ」
「してない」
「……そうですか」
子どもが笑う。
父親も笑った。
番号を呼ばれる。
「お待たせしました」
二人分のハンバーガー。
トレーを受け取る。
「ありがとう」
席へ戻る。
子どもが包み紙を開く。
「いただきます!」
「いただきます」
一口。
子どもが目を丸くした。
「おいしい!」
「よかったな」
「おいしい!」
「分かったって」
「おいしい!」
「そんなに?」
「うん!」
父親も食べる。
普通のハンバーガーだった。
仕事帰りの空腹には、ちょうどいい。
「……うん」
父親も頷いた。
「おいしいな」
「でしょ?」
「はいはい」
子どもは夢中で食べている。
父親はその様子を眺めながら、自分のハンバーガーを食べる。
窓の外を車が走っていく。
店内では、注文を呼ぶ声。
食器の音。
笑い声。
ドアの開閉音。
いつもの夕方だった。
「お父さん」
「ん?」
「ここ、昨日も来た?」
「昨日?」
「うん」
父親は少し考えた。
「来てないよ」
「そうだっけ」
「昨日は家で食べただろ」
「そっか」
子どもは納得した。
またハンバーガーを食べる。
父親は笑った。
「覚えてないのかよ」
「覚えてるよ」
「どっちだよ」
「覚えてる」
「じゃあいいけど」
父親はスマートフォンを見る。
妻からメッセージが来ていた。
『帰り何時くらい?』
『今食べてる。7時半くらいには帰る』
送信。
子どもが、
「お父さん」
「今度は何?」
「また来ようね」
父親は少し考えた。
「そうだな」
「約束?」
「約束」
子どもが笑った。
食べ終わる。
父親はトレーを持つ。
「行くよ」
「待って」
「何?」
「まだ」
子どもが紙ナプキンを一枚取った。
何かを書いている。
「何書いてるの?」
「ひみつ」
「そうですか」
父親は待った。
子どもは紙ナプキンを折った。
ポケットに入れる。
「行こう」
「うん」
二人で店を出る。
「ありがとうございました」
店員の声。
父親は軽く頭を下げた。
「どうも」
外へ出る。
夜の空気。
子どもが父親の手を握る。
「車どっち?」
「あっち」
「帰ろう」
「うん」
二人で歩く。
そのとき。
店の前で、誰かが電話をしていた。
スーツ姿の男だった。
「うん。今から帰る」
男は電話を切る。
父親と子どもが横を通る。
男は少しだけ道を空けた。
「すみません」
「いえ」
二人はそのまま通り過ぎた。
男も反対方向へ歩いていった。
それだけだった。
車に乗る。
「シートベルト」
「した」
「本当に?」
「した!」
「はいはい」
エンジンをかける。
バックミラーを見る。
子どもが後部座席で眠そうにしている。
「眠い?」
「眠くない」
「そう」
「眠くない」
「分かった」
信号が青になる。
車が動き出す。
子どもが窓の外を見る。
「お父さん」
「ん?」
「またハンバーガー食べようね」
「うん」
「明日?」
「明日は家で食べる」
「じゃあ明後日?」
「早いな」
父親は笑った。
「また今度な」
「約束?」
「約束」
子どもは満足したように目を閉じた。
家に帰る。
妻が玄関まで来る。
「おかえり」
「ただいま」
「食べてきた?」
「うん」
「何食べたの?」
「ハンバーガー」
「また?」
「子どもが食べたいって」
「そっか」
子どもは靴を脱ぎながら、
「おいしかった!」
と叫んだ。
「よかったね」
母親が笑う。
父親も笑う。
普通の夜だった。
寝る前。
父親は財布からレシートを出した。
家計簿につけるためだった。
金額を見る。
ハンバーガー二つ。
六百円。
時刻。
午後六時五十三分。
そして、
客数。
2
父親は何も思わなかった。
当然だった。
今日は、
二人で来たのだから。
レシートを財布に戻す。
家計簿に六百円と書く。
スマートフォンを充電器に置く。
布団に入る。
隣では子どもが眠っている。
「おやすみ」
小さく言う。
返事はない。
父親も目を閉じた。
翌朝。
子どもが起きる。
「お父さん」
「ん……?」
「ハンバーガー」
「朝から?」
「ハンバーガー」
「今日は違う」
「えー」
「今日は家で食べる」
「明日は?」
「明日も分からない」
「じゃあ、また今度?」
「うん。また今度」
「約束?」
「約束」
子どもは笑った。
父親も笑った。
そして二人は、いつもの朝を始めた。
昨夜の店のことも。
窓際の席のことも。
店の前ですれ違った会社員のことも。
誰も覚えていない。
ただ。
父親が家計簿に書いた、
「600円」
という数字だけが、
昨日の夜を残していた。
それ以外には、
何もなかった。
少なくとも、
二人にとっては。




