第1話「普通の客」
午後八時十三分。
会社員は、会社を出た。
「疲れた……」
独り言だった。
今日は特別忙しかったわけではない。
午前中に会議が一つ。
午後に二つ。
その合間にメールを返して、頼まれた資料を直して、またメールを返した。
大きなトラブルはなかった。
だからこそ、疲れた。
駅へ向かって歩く。
スマートフォンを見る。
新着メッセージが一件。
『今日、夕飯どうする?』
妻からだった。
少し考える。
冷蔵庫に何かあった気もする。
なかった気もする。
帰ってから確認して、もし何もなかったら、そこから何か作る。
それを想像しただけで面倒になった。
『食べて帰る』
送信。
『了解』
返信。
会話はそれで終わった。
駅へ向かう道の途中に、店がある。
ハンバーガーショップ。
明るい看板。
大きなガラス窓。
店内には、それなりに客がいた。
会社帰りらしい人。
学生。
親子連れ。
一人でスマートフォンを見ている人。
いつも見かけるような光景だった。
会社員は少しだけ足を緩める。
腹が減っていた。
店を見る。
時計を見る。
午後八時十八分。
「……ここでいいか」
店に入った。
ドアが開く。
電子音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店員が言う。
「こんばんは」
会社員も答えた。
メニューを見る。
いろいろある。
期間限定。
セット。
ポテト。
ナゲット。
飲み物。
少し迷う。
でも、今日はそこまで考えたくなかった。
「ハンバーガー一つ」
「ハンバーガーお一つですね」
「はい」
「お会計、三百円です」
財布を出す。
三百円を払う。
「ありがとうございます。少々お待ちください」
「お願いします」
番号札を受け取った。
空いている席を探す。
窓際が一つ空いていた。
そこに座る。
鞄を隣の椅子に置く。
スマートフォンを見る。
仕事のメールが一件来ている。
開く。
読む。
閉じる。
「……明日でいいか」
スマートフォンを伏せた。
隣の席では、学生らしい二人が話している。
「それ絶対違うって」
「いや、合ってるって」
「じゃあ見せて」
「嫌だよ」
笑い声。
少し離れた席では、子どもがポテトを食べている。
「一個ずつね」
「うん」
「一個ずつだからね」
「うん!」
店内には、揚げ物の匂いがしていた。
肉を焼いた匂いもする。
会社員は何となく時計を見る。
八時二十一分。
「お待たせしました」
店員がトレーを持ってきた。
「ありがとうございます」
ハンバーガーが一つ。
紙に包まれている。
会社員は包み紙を開いた。
普通のハンバーガーだった。
パン。
肉。
レタス。
チーズ。
ソース。
特別なものは何もない。
少しだけ形が崩れている。
会社員は気にしなかった。
「いただきます」
一口。
パンが柔らかい。
肉の塩気。
ソースの甘さ。
レタスの食感。
チーズの味。
二口目。
三口目。
「……おいしい」
小さく呟いた。
別に、感動するほどではない。
けれど、仕事帰りで腹が減っていた。
だから美味しかった。
それで十分だった。
食べながらスマートフォンを見る。
ニュースを読む。
天気予報を見る。
明日の気温を見る。
通知を一つ消す。
また一つ消す。
ハンバーガーがなくなる。
最後の一口を食べる。
紙を丸める。
飲み物は頼んでいない。
少しだけ口の中に残ったソースを舌で取る。
「ごちそうさま」
誰に言うでもなく呟いた。
トレーを持って立ち上がる。
返却口へ向かう。
トレーを置く。
鞄を持つ。
店を出る。
「ありがとうございました」
背中から声が聞こえる。
会社員は振り返った。
「どうも」
それだけ言って、外へ出た。
夜だった。
少し冷えている。
会社員は駅へ向かって歩き始めた。
途中でコンビニに寄ろうかと思った。
でも、やめた。
もう夕飯は食べた。
そのまま家へ帰った。
「ただいま」
「おかえり」
妻がリビングから返事をする。
「何食べたの?」
「ハンバーガー」
「ふーん」
「うん」
会社員は鞄を置いた。
手を洗う。
水を止める。
リビングに戻る。
テレビではニュースが流れていた。
今日もどこかで何かが起きている。
会社員はソファに座った。
ニュースを見る。
内容はあまり頭に入らない。
眠かった。
明日も仕事がある。
「風呂入って寝るか」
「うん」
立ち上がる。
その前に財布を机の上へ置いた。
財布の中身を整理する。
レシートが一枚。
今日のものだった。
何となく取り出す。
紙を広げる。
商品名。
金額。
時刻。
いつものレシート。
会社員は特に読むこともなく、端から丸めた。
ゴミ箱へ入れる。
そのまま風呂へ向かった。
シャワーを浴びる。
歯を磨く。
布団に入る。
スマートフォンを見る。
午後十一時四十七分。
妻が隣で眠っている。
会社員は画面を消した。
目を閉じる。
今日のことを思い返す。
会議。
メール。
資料。
ハンバーガー。
それだけ。
特に何もなかった。
普通の一日だった。
眠る。
翌朝。
目覚ましが鳴る。
会社員は起きる。
顔を洗う。
着替える。
朝食を食べる。
鞄を持つ。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
家を出る。
駅へ向かう。
電車に乗る。
会社へ行く。
昨日のハンバーガーのことなど、もう考えていない。
その日もまた、仕事が始まった。
何も起きなかった。
本当に、何も。
ただ一つ。
昨夜、ゴミ箱へ捨てられたレシートだけが、
まだそこにあった。
印字された文字。
客数:2
それだけだった。




