第18話「同じ客」
イオは、店に入る前に右手を二度開いた。
第八世代身体へ交換してから、七日目。
関節応答は正常。 触覚遅延なし。 自己所有感、九八・七パーセント。
医療局の診断なら、もう「定着済み」だった。
それでも、ぱんでむのドアに触れるときだけ、イオは右手を確かめる。
理由は分かっている。
この店は、新しい身体を新しい客として扱わなかった。
身体番号も、生体署名も、契約主体も変わったのに。
前の身体で食べたものを覚えていた。
自動ドアが開く。
油の匂い。
焼けたパン。
その奥に、少しだけ甘い匂い。
右手の指先が、先に思い出した。
「……これ」
イオは指を擦った。
旧身体で持った包み紙の感触だった。
もちろん、そんなものが新しい皮膚に残っているはずはない。
レムが隣で足を止めた。
「また?」
「うん」
「医療局には?」
「言ってない」
「どうして」
「説明が面倒だから」
「嘘」
イオは答えなかった。
レムはそれ以上聞かなかった。
こういうところだけは、旧身体の頃から変わらない。
二人は注文端末へ向かった。
画面が点灯する。
通常なら最初に表示されるのは言語選択と認証方式だ。
今日は違った。
白い画面の中央に、一行だけ表示されていた。
《おかえりなさい》
イオは立ち止まった。
「前にも出た?」
「いや」
レムが答えた。
「少なくとも、私と来たときには」
表示が消える。
いつものメニューが現れた。
イオは触らない。
数秒後。
画面右上に、小さな数字が出た。
《来店:18》
「十八回?」
「そんなに来てない」
レムは即答した。
「私は十三回記録してる」
「わたし、一人で来たの五回だっけ」
「三回」
イオは黙った。
十八。
端末の数字は変わらない。
「身体交換前も含めて?」
「それでも十六」
レムが端末へ顔を寄せる。
「医療局にいた期間を考えれば、あと二回来る余地はない」
イオは右手を見た。
指先が、かすかにざらつく。
存在しない包み紙。
「……注文しよう」
「いいの?」
「お腹すいた」
レムが何か言いかけたが、やめた。
イオはチーズバーガーを選んだ。
端末が一度だけ暗転した。
《いつものですね》
「違う」
イオは思わず言った。
チーズバーガーを注文したのは初めてだった。
レムも覚えている。
イオはいつも別の商品を選ぶ。
端末は訂正しなかった。
決済が終わる。
番号札。
十八番。
「趣味悪いな」
イオが笑った。
「偶然だと思う?」
「思いたい」
二人で席についた。
窓際。
レムは記録を開き、過去の来店履歴を照合し始めた。
イオは外を見る。
高架交通網の下を、交換身体の広告が流れていた。
《あなたは身体ではありません》
《交換しても、あなたはあなた》
ありふれた広告文句だった。
イオは自分の右手をテーブルに置く。
白くて、細い指。
前より少し長い。
爪の形も違う。
それなのに。
テーブルの縁をなぞると、ときどき知らない傷の位置を避けようとする。
この身体には存在したことのない傷を。
「イオ」
レムの声が低くなった。
「なに」
「十六回で合ってる」
「うん」
「ただ」
レムが記録を見せた。
十六件。
日付。 時刻。 注文内容。 決済記録。
その下に、空白が二行あった。
「なにこれ」
「空欄」
「見れば分かる」
「違う。データがないんじゃない」
レムは一行目を指した。
「来店記録の連番だけ存在する」
十五。
十六。
十七。
十八。
十七と十八には、何もない。
日付も。
注文も。
決済も。
ただ、
《来店済》
とだけ記録されていた。
厨房から呼び出し音が鳴った。
十八番。
イオは立ち上がる。
「待って」
レムが腕を掴んだ。
「注文してから三十秒しか経ってない」
「早い店なんじゃない?」
「前は平均四分十二秒」
「細かい」
「イオ」
声が変わった。
イオは座り直した。
カウンターには紙袋が置かれている。
十八番。
誰も呼びに来ない。
もう一度、呼び出し音。
十八番。
三度目。
十八番。
「……行かないと、ずっと鳴るんじゃない?」
「私が行く」
「わたしの注文」
「だから」
レムが立った。
イオも立った。
二人で行った。
紙袋は温かかった。
レムが先に開ける。
中にはチーズバーガーが三つ入っていた。
「一個しか頼んでない」
「触らないで」
三つ。
同じ包装。
ただし、一つだけ紙が古い。
黄色く変色し、角が柔らかく擦れている。
イオの右手が動いた。
止めるより早かった。
指が、その古い包みへ触れる。
ざらり。
知っている。
イオは手を引いた。
「これだ」
「何が」
「ずっと残ってた感触」
レムの顔から表情が消えた。
古い包み紙を、ゆっくり開く。
中にはチーズバーガー。
乾いてもいない。 腐ってもいない。
湯気が立っている。
包装だけが古かった。
紙の内側に文字がある。
手書きだった。
《17》
レムがもう一つを開く。
新しい包み紙。
内側。
《18》
「じゃあ」
レムは三つ目を見た。
二人とも、すぐには触らなかった。
注文した一個。
現在の一個。
なら、三つ目は。
イオが開けた。
何も書いていない。
代わりに。
バーガーが、一口だけ欠けていた。
二人とも動かなかった。
噛み跡は小さい。
イオは舌で、奥歯を触った。
「……わたしの歯並び」
「そんなわけない」
「前の」
レムがイオを見る。
イオはバーガーを見ていた。
右手の指先から、存在しないはずの記憶が上がってくる。
包みを持つ。
開く。
熱い。
齧る。
味。
チーズ。
肉。
少し強い塩。
それから。
誰かが向かいに座っている。
顔だけが思い出せない。
「レム」
「なに」
「わたし、これ食べたことある」
「いつ」
「分からない」
「どの身体で?」
そこで、イオは初めてレムを見た。
答えようとして。
答えられなかった。
身体なら交換した。
記憶なら移した。
利用履歴なら継続した。
どれも、もう「自分」を区切る線にはならない。
店内の注文端末が鳴った。
二人とも振り返る。
誰も触れていない。
画面に、新しい注文が入っていた。
《チーズバーガー 1》
《来店:19》
イオの右手が震えた。
その瞬間。
まだ誰も受け取っていない十八番のバーガーから、
一口が消えた。




