第17話「新しい手」
新しい身体になって最初に困ったのは、
ドアだった。
「開かない」
イオは手のひらを認証板へ押しつけた。
赤。
もう一度。
赤。
「お前んち?」
「俺んち」
「じゃあ何で入れないの」
「知らない」
横でレムが笑っている。
「笑うな」
「だって昨日まで『新型最高』みたいな顔してたじゃん」
「言ってない」
「顔が」
「顔も新品なんだけど」
三度目。
赤。
イオは自分の右手を見る。
指。
掌紋。
皮膚温。
全部、新しい。
「あ」
「何」
「登録してない」
「ばか」
「交換所がやると思ってた」
「身体変えるたび家から締め出される人、初めて見た」
「今日から二人目を探す」
◆
管理窓口で再登録を済ませるまで、一時間かかった。
その間にも、
新しい身体はいちいち快適だった。
階段を上っても息が乱れない。
視界の端に文字が滲まない。
左膝も鳴らない。
小指も勝手に曲がらない。
「どう?」
「腹立つくらいいい」
「何で腹立つの」
「昨日までの俺が急に粗悪品みたいだろ」
「機械だよ?」
「知ってる」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
レムは端末を操作しながら言った。
「面倒くさいね、新品なのに」
「中身は中古だから」
「三十二年物」
「熟成してる」
◆
昼休み。
二人は職場の休憩区画へ向かった。
イオが飲料筒を取る。
蓋をひねる。
開かない。
「……」
もう一度。
開かない。
力を入れる。
蓋が吹き飛んだ。
向かいの壁に当たった。
「強っ」
「加減分からん」
レムが蓋を拾う。
「昨日なら落としてたのに」
「昨日は小指が悪かっただけ」
「コップ側じゃなかったんだ」
「訂正しない」
イオは飲料筒を受け取った。
新しい手。
握力の制御。
反応速度。
どれも旧式より正確なはずなのに、
まだ自分のものとして馴染まない。
机に置こうとして、
少し強く置いた。
ごつ。
「……」
「今度は机側?」
「机が近かった」
「なるほど」
◆
仕事帰り。
「ぱんでむ行く?」
レムが言った。
「行かない」
「即答」
「今日は家で食う」
「昨日あんなに執着してたのに」
「昨日で終わり」
「本当に?」
「本当に」
「焦げた玉葱」
「言うな」
「焼肉バーガー」
「言うな」
「古い舌」
「やめろ」
レムが笑った。
二人は味覚接続食堂の前を通り過ぎた。
赤と黄色の細い発光線。
イオは見なかった。
「ほら」
「何」
「ちゃんと通り過ぎた」
「褒めて」
「えらいえらい」
「雑」
◆
三日後。
イオは、
ぱんでむにいた。
一人で。
「……一回だけ」
注文機は答えない。
焼肉バーガー。
選択。
着席。
首筋へ端子。
新しい身体になって初めての接続だった。
照明が落ちる。
匂い。
熱。
紙包み。
そして、
味。
「……」
イオの眉が上がった。
「うま」
分解能が違う。
肉の脂。
ソースの酸味。
玉葱の糖。
パン表面の焼け。
全部が以前より細かい。
「これか」
第八世代。
舌覚分解能十八%向上。
「十八どころじゃないだろ」
一口。
もう一口。
楽しかった。
単純に。
今まで食べていたものの中に、
こんなに情報があったのかと思う。
旧式にこだわっていた自分が、
少し馬鹿らしくなった。
半分食べる。
異常なし。
保持領域の表示もない。
「……終わったか」
少しだけ、
安心した。
そして、
少しだけ、
つまらなかった。
◆
最後の一口を食べる。
接続終了。
白い店内へ戻る。
「ごちそうさま」
誰もいない。
イオは立ち上がった。
その時、
手に違和感があった。
「……?」
右手。
人差し指と親指が、
何かをつまんでいる。
何もない。
けれど、
感触だけがある。
薄い紙。
少し油を吸った、
バーガーの包み紙。
「……」
手を開く。
何もない。
閉じる。
また、
紙の感触。
「何だこれ」
振る。
消えない。
指先をこする。
そこにないはずの油が、
ぬるりと滑る。
鼻へ近づける。
匂いはしない。
舌で触れる。
味もしない。
触覚だけ。
旧式の手が、
最後まで包み紙を持っていた感覚。
「……おい」
注文機を見る。
画面は通常表示。
利用終了。
栄養供給完了。
異常なし。
イオは出口へ向かった。
◆
帰宅しても、
感触は残った。
風呂に入る。
残る。
手を洗う。
残る。
手袋をする。
手袋の内側に、
さらに薄い紙が一枚挟まっているように感じる。
「最悪」
イオは手袋を投げた。
床へ落ちる。
右手はまだ何かを持っている。
握る。
開く。
握る。
開く。
何もない。
それでも、
指は自然に、
包み紙を畳む動きをした。
一度。
二度。
角を折る。
油の染みた紙を、
食べ終わった後いつもそうしていたように。
イオは手を止めた。
「……俺、こんなことしてたっけ」
◆
翌朝。
「寝不足?」
レムが聞いた。
「普通」
「目、赤い」
「新品だから赤くなる仕様」
「返品しなよ」
「黙れ」
作業机。
イオは部品を並べる。
右手が勝手に動いた。
一つ。
二つ。
三つ。
端を揃える。
角度を揃える。
昨日まで、
そんな並べ方はしていなかった。
「何してるの?」
「知らない」
「綺麗だけど」
「気持ち悪い」
イオは崩した。
もう一度作業する。
数分後。
また並んでいる。
「……」
レムが手を止めた。
「それ、前の身体の癖?」
「知らない」
「知らないって」
「覚えてない」
イオは自分の右手を見る。
新しい。
傷一つない。
指の節も、
昨日までとは違う。
なのに、
動きだけが古い。
◆
その日の帰り。
「行くよ」
イオが言った。
「どこ」
「ぱんでむ」
「昨日、終わったって」
「終わってない」
レムは少し黙った。
「今日は私も行く」
「来なくていい」
「行く」
「何で」
「面白そうだから」
「最低」
「心配もしてる」
「後付け」
◆
二人で接続した。
イオは焼肉。
レムは合成海老。
「もし変になったら抜くからね」
「今回は待て」
「昨日一人で来た人に決定権ない」
「何で知ってる」
「決済履歴共有してる」
「それ切る」
「そこ?」
食事が始まる。
イオの新しい舌。
新しい手。
新しい目。
すべて正常。
最初の一口。
何もない。
二口。
三口。
右手に、
紙の感触。
「来た」
「何が?」
「包み」
「見えてるけど」
「違う。もう一枚ある」
レムが眉を寄せる。
「どこ」
「手の中」
「何もないよ」
「分かってる」
イオは食べ続ける。
紙の感触が強くなる。
そして、
右手だけではなくなった。
左手。
古いコップの重さ。
膝。
階段を下りた時の小さな軋み。
頬。
昔ついた傷の、
もう存在しない引きつれ。
「……」
「イオ?」
視界の右端が、
一瞬だけ滲んだ。
旧式の目。
次の瞬間には、
新型の鮮明な視界へ戻る。
「抜くよ」
「待って」
「嫌」
「あと一口」
「またそれ!」
レムが手を伸ばす。
その前に、
注文機が光った。
身体識別:第8世代
次。
利用履歴:継続
イオが画面を見る。
「……」
さらに一行。
旧身体:該当なし
レムが止まった。
「該当なし?」
イオも何も言わない。
画面が変わる。
客識別:継続
「……俺を何で見てるんだ」
返事はない。
イオの手の中で、
存在しない包み紙が、
小さく鳴った。
◆
レムが端子を抜いた。
白い店内。
イオは椅子に座ったまま、
右手を見ていた。
「交換所に行こう」
「何て言う」
「変な感触があるって」
「身体は正常だよ」
「じゃあ頭」
「もっと嫌だ」
「店?」
「もっと説明できない」
レムは少し考えた。
「じゃあ帰る?」
「……うん」
立つ。
出口へ向かう。
その途中、
イオは注文機の前で止まった。
「何」
「ちょっと」
画面を操作する。
利用履歴。
過去の注文。
一年前。
二年前。
三年前。
身体交換以前の記録も、
全部並んでいる。
「アカウントだからでしょ」
「うん」
さらに古いものを開く。
初回来店。
四代目身体へ交換した直後。
焼肉バーガー。
イオは画面を見た。
「これ」
「何?」
利用者欄。
名前はない。
身体番号もない。
識別方式だけが記録されていた。
来店個体
レムが黙った。
イオはもう一段、
履歴を開いた。
今日。
身体:第8世代 来店個体:同一
「……帰ろ」
今度は、
イオが先に歩いた。
◆
出口が開く。
居住環の白い通路。
人々が行き交う。
交換したばかりの身体。
古い身体。
仕事用身体。
義肢だけ替えた者。
脳殻を透明ケースに収めた者。
誰も気にしない。
イオも、
今までは気にしなかった。
「レム」
「何」
「俺さ」
「うん」
「次に身体変えても、ここ来たら同じ客かな」
レムは少し考えた。
「知らない」
「だよな」
二人は歩いた。
イオの右手は、
もう包み紙を感じていなかった。
代わりに、
何も持っていない指が、
自然にレムの飲料筒を受け取った。
「何で取るの」
「知らない」
「返して」
「はい」
返す。
レムは一口飲んだ。
「それ、前の身体でもやってたよ」
イオの足が止まった。
「……いつ?」
「ずっと」
「俺、覚えてない」
「私は覚えてる」
レムはそのまま先へ行った。
イオだけが、
一歩遅れてついていった。




