第16話「古い舌」
「交換、明日にした」
イオが言った。
「は?」
レムの右目が青く点滅した。
「予約、今日でしょ」
「明日にした」
「何で」
「食べたいから」
「新しい身体でも食べられるよ」
「違う」
イオは歩きながら、自分の頬をつねった。
「これで食べたい」
駅壁一面を走る広告が、二人の横を追い越した。
第八世代共用身体 舌覚分解能18%向上 交換所は第三環状層へ
「旧式に愛着持つ人、初めて見た」
「愛着じゃない」
「じゃあ何」
「今日までこれ俺なんだから、最後くらい好きにする」
「十分愛着じゃん」
イオは答えなかった。
左手の小指が、また勝手に曲がった。
「ほら」
レムが指差す。
「故障してる」
「生活に支障ない」
「昨日コップ落とした」
「あれはコップ側」
「コップに意思持たせないで」
◆
二人が働く第六居住環は、三年前から生身の身体を使う住民の方が少ない。
脳殻だけ残す者。
全身を交換する者。
仕事用と休日用を分ける者。
身体なんて服と同じ、と言う者もいる。
イオも別に珍しい思想を持っているわけではなかった。
今の身体だって四代目だ。
ただ、
この舌だけは気に入っていた。
「着いた」
レムが止まる。
壁に埋め込まれた入口。
赤と黄色の細い発光線。
看板には、
PANDEMONIUM 味覚接続食堂
とだけある。
扉の向こうに厨房はなかった。
十六席の椅子。
十六個の頭部接続端子。
中央に注文機。
この環では、それで十分だった。
「俺、焼肉バーガー」
「また?」
「最後だから」
「昨日も最後って言ってなかった?」
「昨日は交換延期すると思ってなかった」
「最終日が増殖してる」
レムは合成海老バーガーを選ぶ。
二人とも座った。
端子を首筋へ差す。
店内の照明が落ちた。
◆
最初に匂いが来た。
焼けた肉。
油。
少し焦げた玉葱。
次に熱。
指先へ紙包みの感触。
目を開ける。
手の中に、
バーガーがある。
もちろん実物ではない。
店が各人の感覚野へ生成している食事体験だ。
胃には栄養液が送られる。
それでも、
食べれば腹は満ちる。
「いただきます」
イオは大きくかじった。
肉汁。
塩。
甘いソース。
舌の奥に少し苦味。
「……これ」
「何」
「この苦味」
「焦げじゃない?」
「これがいいんだよ」
「新型の方がもっと精密らしいよ」
「精密だからいいとは限らない」
「老人みたい」
「三十二です」
「身体年齢は?」
「六」
「幼児じゃん」
イオは笑った。
もう一口。
左小指が勝手に曲がる。
紙包みが少し傾いた。
「危な」
「交換しなよ」
「明日するって」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんになった」
◆
半分ほど食べたところで、
味が消えた。
「……ん?」
肉を噛んでいる。
食感はある。
温度もある。
匂いもする。
だが味だけがない。
「レム」
「何」
「味する?」
「するけど」
レムは普通に食べている。
イオはもう一口。
無味。
「端子おかしい」
手を上げる。
店員はいない。
代わりに注文機が光った。
接続状態:正常
「正常じゃない」
イオは首筋の端子を押した。
「舌、死んだ?」
「縁起でもない」
「明日交換するんだから」
「今日死ぬのは困る」
注文機がもう一度光る。
味覚出力先を確認しています
「出力先?」
数秒。
出力先:2
イオとレムは黙った。
「私じゃないよ」
「分かってる」
「一応」
イオは自分のバーガーを見る。
半分残っている。
「二って何だよ」
画面が変わる。
主出力:接続個体 副出力:保持領域
「保持領域?」
レムが立つ。
「切ろう」
「待って」
「何で」
「味戻るかも」
「知らないところに味送られてるのに?」
「俺の最後のバーガー」
「そこ?」
イオはもう一度かじった。
一瞬だけ、
味が戻った。
「来た」
「切るよ」
「待って」
また消える。
戻る。
消える。
まるで、
誰かと交互に食べている。
イオの咀嚼が止まった。
「……これ」
「何」
「半分ずつだ」
レムが端子へ手を伸ばす。
「十分」
「待て」
「待たない」
「あと三口」
「知らない」
端子が抜けた。
◆
世界が戻った。
白い椅子。
白い壁。
栄養液の残量表示。
手の中には何もない。
「最悪」
「何が」
「最後まで食えなかった」
「身体壊すよりいい」
「食事で身体壊れる店って何」
「それは確かに」
イオは注文機を見る。
接続終了。
栄養供給完了。
利用料金。
全部正常。
「ほら」
レムが出口を指す。
「交換所、まだ間に合うよ」
「今日?」
「明日にした予約、戻せば」
「嫌」
「何で!」
「腹立ったから」
「誰に?」
イオは注文機を指差した。
「こいつ」
「機械に喧嘩売らないで」
「明日また来る」
「新しい身体で?」
「いや」
「交換は?」
「その後」
「順番!」
◆
翌日。
イオは一人で来た。
レムには黙っていた。
交換予約まで四十分。
「焼肉バーガー」
注文。
着席。
接続。
昨日と同じ味。
「……よし」
一口。
二口。
三口。
味は消えない。
「何だよ」
少し拍子抜けした。
食べる。
半分。
まだ普通。
あと少し。
昨日食べ損ねた分まで食べてやる。
そんな気分だった。
最後の一口。
口へ運ぶ。
その瞬間、
味が二つになった。
「……?」
同じバーガー。
同じ肉。
同じソース。
なのに、
一つは今の味。
もう一つは、
少し鈍い。
焦げの苦味だけが妙に強い。
イオは動きを止めた。
知っている味だった。
昨日までの、
自分の舌の味。
いや。
今も同じ舌だ。
なのに、
少し違った。
もっと古い。
何年も前。
この身体へ交換したばかりの頃。
初めてこの店へ来た日。
その時の味だった。
「……」
注文機が光る。
接続状態:正常
次。
保持領域:利用中
イオは画面を見た。
昨日なら切っていたかもしれない。
今日は、
最後の一口を噛んだ。
二つの味が重なった。
現在の舌。
昔の舌。
同じはずなのに、
同じではない。
飲み込む。
接続が切れた。
◆
交換所で、
新しい身体へ移った。
「具合どうですか?」
技師が聞く。
イオは新しい右手を開閉した。
小指は勝手に曲がらない。
「いいです」
「味覚確認します?」
「お願いします」
試験液。
甘味。
酸味。
塩味。
苦味。
全部、前より鮮明だった。
「問題ありません」
「はい」
新しい身体で立つ。
軽い。
視界も広い。
関節も静かだ。
出口へ向かう。
その途中、
イオは足を止めた。
「すみません」
「はい?」
「昨日までの身体って、どうなります?」
「初期化して再資源化されます」
「舌も?」
「もちろん」
「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
◆
夜。
ぱんでむの注文機。
誰も接続していない席が一つだけ起動した。
焼肉バーガー。
一件。
栄養供給、
不要。
味覚出力、
継続。
そして誰もいない椅子の前で、
焦げた玉葱の匂いだけが、
しばらく消えなかった。




