第11話「いつもの席」
午後六時三十二分。
「ここ?」
「うん」
「やっと連れてきてくれたね」
妻が笑った。
「そんな大げさな店じゃないよ」
「半年くらい通ってる人が言う?」
「普通の店だから」
「それ、ずっと言ってるよね」
男はドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
いつもの声だった。
仕事帰りに何度も聞いた声。
いつもの照明。
いつもの匂い。
いつものカウンター。
窓際には、いつもの席も空いていた。
男は少し安心した。
「二名様ですね」
「はい」
店員が男を見る。
「今日はお二人なんですね」
「妻です」
「初めまして」
妻が軽く頭を下げた。
「いつも主人がお世話になってます」
「いえいえ。よくご利用いただいてます」
「やっぱり相当来てるじゃん」
「まあ」
「何にする?」
「私はチーズのやつ」
「じゃあ俺はいつもの」
店員が頷く。
「ハンバーガー、ポテト、コーヒーですね」
「はい」
妻が横から男を見る。
「本当に覚えられてる」
「だから言っただろ」
「ちょっと面白い」
二人は注文を済ませた。
男が窓際を指差す。
「あそこ」
「そこがいつもの席?」
「うん」
「徹底してるね」
「空いてたらだけど」
二人で歩く。
男は椅子を引こうとした。
そこで止まった。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
椅子を見る。
誰も座っていない。
当然だった。
「何?」
「今、誰かいた気がした」
「いた?」
「いや」
男は周囲を見る。
隣の席には学生が二人。
奥には親子。
カウンター近くには会社員。
いつもの夕方だった。
「気のせいだな」
「疲れてるんじゃない?」
「かも」
二人は座った。
◆
「お待たせしました」
トレーが運ばれてくる。
「ありがとうございます」
男の前には、
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
妻の前にはチーズバーガーと飲み物。
「いただきます」
「いただきます」
妻が一口食べる。
「……あ、おいしい」
「だろ」
「うん。普通においしい」
男が笑う。
「同じこと言ってる」
「だって普通においしい」
「だから来るんだよ」
「分かった気がする」
男も食べる。
いつもの味だった。
何度食べても同じ。
塩気。
ソース。
焼いた肉の匂い。
少し柔らかいバンズ。
コーヒーを飲む。
「落ち着くでしょ」
「うん」
妻が窓の外を見る。
「でも駅前、だいぶ変わったね」
「そうなんだよ」
「前、本屋あったところ何になるの?」
「マンションじゃない?」
「あそこ好きだったのにな」
「俺も何回か行った」
向かい側では、古い建物の解体工事が進んでいた。
フェンス。
重機。
更地。
男はそれを見ながらポテトを取る。
「なくなると早いよな」
「何が?」
「店とか」
「まあね」
「ずっとあった気がするのに」
「なくなったら、意外とすぐ慣れるよ」
「そんなもんか」
「そんなもん」
妻がチーズバーガーを食べる。
男も食べる。
それで会話は途切れた。
静かだった。
悪くない沈黙だった。
◆
男がコーヒーを持ち上げたときだった。
窓に、
自分の姿が映った。
男。
妻。
テーブル。
照明。
その奥。
もう一人、
男がいた。
「……」
手が止まった。
「どうしたの?」
「いや」
振り返る。
誰もいない。
窓を見る。
いない。
「また?」
「何が?」
「さっきも変だったじゃん」
「ちょっと疲れてるのかも」
「ちゃんと寝てる?」
「一応」
男はコーヒーを飲んだ。
苦い。
いつもの味。
数分後。
妻がトイレへ立った。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
一人になった。
男はスマートフォンを見る。
ニュースを開く。
何となくスクロールする。
ふと、
視界の端で誰かが座った。
「……?」
顔を上げる。
向かいの席。
妻の席ではない。
その一つ隣。
男が座っていた。
スーツ姿。
一人。
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
「……」
よく見る。
見覚えがあった。
というより、
自分だった。
「……は?」
髪型。
眼鏡。
鞄。
ネクタイ。
全部、自分だった。
ただし、
着ているスーツが違う。
去年まで着ていたものだった。
男は固まった。
向かいの自分は、
こちらを見ない。
スマートフォンを見ている。
一口。
ハンバーガーを食べる。
コーヒーを飲む。
窓の外を見る。
その仕草まで覚えていた。
「……」
いつだったか。
まだ向かいの本屋が営業していた頃。
仕事帰り。
一人でここへ来た。
あの席に座った。
同じものを頼んだ。
たぶん、
今見ている通りに。
男は立ち上がった。
椅子が音を立てる。
向かいの自分は反応しない。
「……すみません」
呼びかける。
反応しない。
「おい」
近づく。
そこで、
厨房から声が聞こえた。
「ハンバーガー、ポテト、コーヒーのお客様」
「……」
誰かがトレーを取りに行く。
別の男。
また、
自分だった。
「……え」
今度は冬のコートを着ている。
その自分がトレーを受け取る。
「ありがとうございます」
普通に言う。
窓際へ歩いてくる。
男の横を通った。
ぶつかりそうになって、
男は反射的に避けた。
だが、
冬服の自分は、
男が存在しないかのように通り過ぎた。
別の席へ座る。
包み紙を開く。
「……うん」
小さく呟いた。
男は覚えていた。
その日も、
確かにそう言った。
◆
気づけば、
店内に自分が増えていた。
一人。
二人。
三人。
窓際。
奥。
柱の横。
それぞれ違う服。
違う季節。
違う鞄。
けれど、
全員が、
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
全員が一人で座っている。
全員が、
自分だった。
「……何なんだよ」
男は後ずさった。
誰一人こちらを見ない。
過去の自分たちは、
それぞれの夜を続けている。
スマートフォンを見る。
仕事のメールを読む。
窓の外を見る。
コーヒーを飲む。
食べ終わる。
席を立つ。
「ありがとうございました」
「どうも」
ドアから出ていく。
すると、
別の自分が入口から入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「いつものですか?」
「はい」
「かしこまりました」
男は自分の席を見る。
自分が座っていた。
今日の自分ではない。
何週間か前の自分。
あの日も、
同じ場所だった。
男は思い出した。
レシート。
あの日。
店員が拾ったレシートを、
ちらりと見たことがある。
その一番下。
意味の分からない文字。
確か、
保存。
そんな文字だった。
「あなた」
声がした。
男は飛び上がった。
妻が戻っていた。
「何してるの?」
「……見える?」
「何が?」
男は店内を指差した。
「あそこ」
「?」
「人」
「いるけど」
「俺」
「あなた?」
「俺がいるだろ」
妻は男の指差す先を見る。
そこでは、
過去の男が一人、
ハンバーガーを食べている。
「……誰もいないよ」
「いるだろ」
「席?」
「そう」
「空いてるよ」
「いや」
男は息を止めた。
妻からは見えていない。
男には見える。
十人近い自分が、
店内で食事をしている。
「帰ろう」
男が言った。
「え?」
「帰る」
「まだコーヒー残ってるよ」
「いい」
「本当にどうしたの?」
「外で話す」
妻が心配そうに見る。
「体調悪い?」
「違う」
「じゃあ」
「分からない」
男は鞄を持った。
そのとき。
「ありがとうございました」
過去の自分が一人、
帰っていった。
店員が言う。
「またお待ちしております」
そして、
また別の自分が入ってきた。
男はドアへ向かった。
◆
「ありがとうございました」
店員が言う。
「……」
男は立ち止まった。
「どうされました?」
店員は普通だった。
いつもと同じ顔。
いつもと同じ声。
男は聞いた。
「あの」
「はい」
「俺、ここに何回来ました?」
「え?」
「今まで」
店員は少し考えた。
「すみません、正確な回数までは」
「そうですよね」
「かなりご利用いただいてますけど」
「……ですよね」
男は店内を見る。
過去の自分たち。
十五人。
いや。
もっといる。
奥にも。
入口近くにも。
カウンターにも。
全員がそれぞれ、
別の日を過ごしていた。
誰も、
今の男を見ていない。
「あなた?」
妻が呼ぶ。
男は答えなかった。
ある一人の自分を見ていた。
半年前。
初めてこの店に入った自分。
まだ店員に顔を覚えられていなかった頃。
メニューを長く見ている。
「ハンバーガー」
初めての自分が注文する。
「ポテト」
少し迷って、
「コーヒーも」
男は、その光景を覚えていなかった。
何でもない日だったから。
けれど、
店は覚えていた。
初めての自分が、
窓際へ向かう。
いつもの席へ座る。
その瞬間、
店内のすべての自分が、
同時にこちらを見た。
「……」
十五人以上の自分。
全員が。
初めて。
今の男を見た。
誰も何も言わない。
ただ、
見ている。
男は動けなかった。
店員の声がした。
「次回も、いつものお席でよろしいですか?」
「……」
男は店員を見る。
店員は笑顔だった。
普通の接客。
いつもの確認。
けれど、
男にはもう、
普通には聞こえなかった。
妻が言う。
「あなた、窓際好きなんでしょ?」
「……」
「今度もあそこでいいよ」
男は、
いつもの席を見た。
そこには、
何人もの自分が重なって座っていた。
同じ場所。
同じ注文。
同じ夜。
同じ帰り道。
男は少しだけ考えた。
そして、
「いや」
と言った。
「?」
妻が見る。
店員も見る。
「次は、別の席にします」
店内が、
一瞬だけ静かになった。
過去の自分たちが止まる。
ハンバーガーを持ったまま。
コーヒーを口元へ運んだまま。
スマートフォンを見たまま。
全員が、
今の男を見ていた。
「かしこまりました」
店員が答えた。
男は妻と店を出た。
◆
「本当に大丈夫?」
駅へ向かいながら妻が聞いた。
「うん」
「急に変だったよ」
「ちょっと疲れてただけ」
「ならいいけど」
男は振り返らなかった。
「でも珍しいね」
「何が?」
「席」
「ああ」
「あんなに気に入ってたのに」
「……まあ」
「どうして変えるの?」
男は少し考えた。
「別に」
それだけ答えた。
妻はそれ以上聞かなかった。
二人で駅へ向かった。
◆
店内。
店員がトレーを片づける。
男の座っていた席。
一枚のレシートが残っていた。
拾う。
ハンバーガー。
ポテト。
コーヒー。
チーズバーガー。
飲み物。
客数。
2
その下。
保存:1
さらに、その下に、
見慣れない項目が増えていた。
変更:1
店員は首を傾げる。
「……?」
窓際を見る。
いつもの席は、
空いていた。
誰もいない。
ただ、
椅子の背もたれに、
長いあいだ誰かが座り続けていたような、
深い窪みだけが残っていた。




