8―男の献身
父親との決別を経て書斎を出た透也は、そのまま本邸の冷たい廊下を歩き、紗奈があてがわれた部屋へと向かった。
そこは天涯孤独になった少女を保護する場所などではなかった。 ただの「異物」として城瀬の家に持ち込まれた彼女に対して、屋敷の使用人たちでさえ、聞こえよがしに陰口を叩き合っている。
『透也様はなぜ、あんな少女に時間を割かれるんだ』
『どうせ無駄よ、どれだけ言ったって食べやしないわ』
感情を失ったはずの紗奈は、その冷酷な言葉の刃に晒されながら、ただ椅子に腰掛けて所在なさげにいる。
透也は部屋に入ると、使用人たちを一瞥もせず、椅子に座る紗奈の前に歩み寄った。そして、彼女の視線に合わせて少し腰を落とす。
静かに、けれど確かな意志を込めて話しかけた。
「紗奈。ここも君のいる場所じゃない。私と共に来るか?」
その言葉に、紗奈の虚ろな瞳が、かすかに揺れた。
透也は、以前から父親から与えられていた、自分だけの『城』──現在の二人が暮らす、あの私邸へと、彼女を連れて二人だけで移り住んだ。城瀬の血の汚れからも、使用人たちの醜い視線からも隔離された、二人きりの完璧な密室。
そこでの生活は、透也にとって一度決めたことを続ける日々だった。 彼は自分の手を汚し、彼女の濡れた黒髪を優しく乾かし、丁寧に櫛で梳かした。拒食を続ける彼女の食事にも、毎日、気が遠くなるほどの根気強さで付き合い続けた。
すべては、彼女が少しでも人間らしくいられるように。
あの日一度だけ確かに下した「選択」を、壊さないために。
それでも、紗奈の心は凍りついたままだった。 スプーンを向けても反応しない日もあった。
それでも透也は、毎日決まった時間に食事を運び、髪を乾かし、眠るまで傍にいた。
けれど透也は諦めなかった。
人間として戻ってこないのなら、この凍りついた肉体に、自分だけの『新しい生き方』を叩き込むまで。
この髪を梳かす手の冷たさだけを、彼女の生きる境界線にするまで。
現在の二人が分かち合う。
あの冷たい口づけだけが、紗奈を現実へ引き戻す唯一の境界線になっていった。
大学にも社交の場からも忽然と姿を消した透也を心配し、薫は透也に連絡した。
「透也、君は今何をしているんだ?君はもう大学卒業だけど、大事な時期だろ。社長も心配してたぞ」
「薫……。今俺は実家にはいない。家を出るにも悪くないタイミングだっただけだ」
(嘘を吐くな、透也。君は……。あの娘を迎えに行ったんだろ)
病院の医師たちの制止を振り切り、父親のリスク管理という名からも、あの心を失った少女を強引に連れ去った。その事実を確信しながらも、薫はそれを口に出すことはできなかった。
「……そうか。ならいいんだ。でも、無理はするなよ」
「あぁ。切るぞ」
短い電子音と共に、通信が途絶える薫はスマートフォンを握ったまま、深い無力感に襲われていた。
自分が、『医者だからって全員を救えるわけじゃない』そう口にしたあの日から。
透也は“正常な世界”の住人であることをやめ、あの少女と共に、二人だけの暗い檻へ降りていったのだ。
その檻の中で、透也が毎日、彼女の髪を梳かし、食事を口に運び、静かに生き方を書き換えていることを――まだ薫は知らない。
人工的な深い眠りから、紗奈はゆっくりと目を覚ました。 時間だけが止まり、身体だけが回復している奇妙な感覚。かつて、あの十二歳の冬に味わったものと酷似した、どこか現実味を欠いた覚醒だった。
(……寝ている場合じゃない。トレーニングしないと、彼に見限られる)
医療室での醜態、そして薫に睡眠薬を飲まされるという護衛として致命的な失態。焦燥が波のように押し寄せ、まだ重い身体を無理やり起こそうとしたその時、無機質な電子音と共に個室の扉が開いた。
仕事を終えた透也が、ネクタイすら緩めない完璧なスーツ姿のまま入ってくる。
「紗奈、帰るぞ」
いつもと変わらない声。 感情の起伏を一切排除したその響きに、紗奈の指先が微かに強張った。
今の自分は、彼に甘やかされているのだろうか。それとも、もう道具としての価値を失い、失望されているのだろうか。それがわからない。わからないからこそ、紗奈は反射的に自分の心を分厚い氷の奥へと閉じ込め、冷徹な「道具」としての表情を張り付かせようとした。
その、一瞬の拒絶を──透也は見逃さなかった。
透也はベッドの脇に歩み寄ると、小さく、微かなため息を吐いた。そして、躊躇いもなく手を伸ばし、彼女の頬にかかった黒髪を、指先で静かに耳の後ろへとかける。
肌に触れた手の冷たさは、五年前、誰もいない『城』で毎晩のように自分の髪を梳かしてくれたあの日の記憶と、完全に一致していた。
「怒ってはいない……」
透也の口から、低く、どこか声音を和らげた言葉が零れ落ちる。
その一言と、肌に残る冷たい感触だけで、紗奈の胸を支配していた焦燥は、嘘のように形を失って霧散していった。 彼は怒っていない。見限られてもいない。ただ、あの日から一歩も変わらず、自分をこの冷たい支配の中に繋ぎ止めてくれている。
「……はい、チーフ」
紗奈は小さく呼吸を整え、彼があつらえた檻の心地よさに身を委ねるように、静かにベッドから足を降ろした。
医療室を出る際、薫とすれ違った。白衣姿の透也の友人は、紗奈を見ることなく静かに目を逸らす。
拒絶なのか、諦めなのか。紗奈は考えなかった。
彼女の瞳はすでに、前を歩く透也の背中だけを、世界のすべてとして追っていた。
(第2幕── 完)




