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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
2 White Dedication  純白の自己犠牲

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9/20

8―男の献身

 父親との決別を経て書斎を出た透也は、そのまま本邸の冷たい廊下を歩き、紗奈があてがわれた部屋へと向かった。

そこは天涯孤独になった少女を保護する場所などではなかった。 ただの「異物」として城瀬の家に持ち込まれた彼女に対して、屋敷の使用人たちでさえ、聞こえよがしに陰口を叩き合っている。

『透也様はなぜ、あんな少女に時間を割かれるんだ』

『どうせ無駄よ、どれだけ言ったって食べやしないわ』

感情を失ったはずの紗奈は、その冷酷な言葉の刃に晒されながら、ただ椅子に腰掛けて所在なさげにいる。


透也は部屋に入ると、使用人たちを一瞥もせず、椅子に座る紗奈の前に歩み寄った。そして、彼女の視線に合わせて少し腰を落とす。

静かに、けれど確かな意志を込めて話しかけた。

「紗奈。ここも君のいる場所じゃない。私と共に来るか?」

その言葉に、紗奈の虚ろな瞳が、かすかに揺れた。


透也は、以前から父親から与えられていた、自分だけの『城』──現在の二人が暮らす、あの私邸へと、彼女を連れて二人だけで移り住んだ。城瀬の血の汚れからも、使用人たちの醜い視線からも隔離された、二人きりの完璧な密室。


そこでの生活は、透也にとって一度決めたことを続ける日々だった。 彼は自分の手を汚し、彼女の濡れた黒髪を優しく乾かし、丁寧に櫛で梳かした。拒食を続ける彼女の食事にも、毎日、気が遠くなるほどの根気強さで付き合い続けた。


すべては、彼女が少しでも人間らしくいられるように。

あの日一度だけ確かに下した「選択」を、壊さないために。


それでも、紗奈の心は凍りついたままだった。 スプーンを向けても反応しない日もあった。

それでも透也は、毎日決まった時間に食事を運び、髪を乾かし、眠るまで傍にいた。


 けれど透也は諦めなかった。

人間として戻ってこないのなら、この凍りついた肉体に、自分だけの『新しい生き方』を叩き込むまで。

この髪を梳かす手の冷たさだけを、彼女の生きる境界線にするまで。

現在の二人が分かち合う。

あの冷たい口づけだけが、紗奈を現実へ引き戻す唯一の境界線になっていった。


 大学にも社交の場からも忽然と姿を消した透也を心配し、薫は透也に連絡した。

「透也、君は今何をしているんだ?君はもう大学卒業だけど、大事な時期だろ。社長も心配してたぞ」

「薫……。今俺は実家にはいない。家を出るにも悪くないタイミングだっただけだ」

(嘘を吐くな、透也。君は……。あの娘を迎えに行ったんだろ)


病院の医師たちの制止を振り切り、父親のリスク管理という名からも、あの心を失った少女を強引に連れ去った。その事実を確信しながらも、薫はそれを口に出すことはできなかった。

「……そうか。ならいいんだ。でも、無理はするなよ」

「あぁ。切るぞ」

短い電子音と共に、通信が途絶える薫はスマートフォンを握ったまま、深い無力感に襲われていた。


自分が、『医者だからって全員を救えるわけじゃない』そう口にしたあの日から。

透也は“正常な世界”の住人であることをやめ、あの少女と共に、二人だけの暗い檻へ降りていったのだ。

その檻の中で、透也が毎日、彼女の髪を梳かし、食事を口に運び、静かに生き方を書き換えていることを――まだ薫は知らない。


 人工的な深い眠りから、紗奈はゆっくりと目を覚ました。 時間だけが止まり、身体だけが回復している奇妙な感覚。かつて、あの十二歳の冬に味わったものと酷似した、どこか現実味を欠いた覚醒だった。


(……寝ている場合じゃない。トレーニングしないと、彼に見限られる)

医療室での醜態、そして薫に睡眠薬を飲まされるという護衛として致命的な失態。焦燥が波のように押し寄せ、まだ重い身体を無理やり起こそうとしたその時、無機質な電子音と共に個室の扉が開いた。

仕事を終えた透也が、ネクタイすら緩めない完璧なスーツ姿のまま入ってくる。


「紗奈、帰るぞ」

いつもと変わらない声。 感情の起伏を一切排除したその響きに、紗奈の指先が微かに強張った。

今の自分は、彼に甘やかされているのだろうか。それとも、もう道具としての価値を失い、失望されているのだろうか。それがわからない。わからないからこそ、紗奈は反射的に自分の心を分厚い氷の奥へと閉じ込め、冷徹な「道具」としての表情を張り付かせようとした。

その、一瞬の拒絶を──透也は見逃さなかった。


透也はベッドの脇に歩み寄ると、小さく、微かなため息を吐いた。そして、躊躇いもなく手を伸ばし、彼女の頬にかかった黒髪を、指先で静かに耳の後ろへとかける。

肌に触れた手の冷たさは、五年前、誰もいない『城』で毎晩のように自分の髪を梳かしてくれたあの日の記憶と、完全に一致していた。


「怒ってはいない……」

透也の口から、低く、どこか声音を和らげた言葉が零れ落ちる。

その一言と、肌に残る冷たい感触だけで、紗奈の胸を支配していた焦燥は、嘘のように形を失って霧散していった。 彼は怒っていない。見限られてもいない。ただ、あの日から一歩も変わらず、自分をこの冷たい支配の中に繋ぎ止めてくれている。

「……はい、チーフ」

紗奈は小さく呼吸を整え、彼があつらえた檻の心地よさに身を委ねるように、静かにベッドから足を降ろした。


 医療室を出る際、薫とすれ違った。白衣姿の透也の友人は、紗奈を見ることなく静かに目を逸らす。

拒絶なのか、諦めなのか。紗奈は考えなかった。

彼女の瞳はすでに、前を歩く透也の背中だけを、世界のすべてとして追っていた。


(第2幕── 完)


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