7―失ったもの
自分が誰かを救えるなんて思い上がりだ。それでも、捨ておいてはいけない。二度とあの花のような笑顔が見られないとしても。
透也は運転席から降りると、薫を車内に残したまま、一人で再び病院の冷たい廊下を歩いていた。
手には、先ほど持ってきた小花の花束があった。透也はそれを一瞥することなく、廊下のゴミ箱に捨てた。
病室のドアを開ける。パタン、と無機質な音が響いた。 ベッドの上の紗奈は、やはりピクリとも動かなかった。何も映さない虚ろな瞳が、ただ天井の白を凝視している。
透也は彼女のベッドの脇に立ち、その痩せこけた小さな肩を掴んだ。
「紗奈」
低く呼びかける。けれど、彼女の瞳は透也を映さない。 怯えも、懐かしさも、何もかもが削ぎ落とされた完全な空白。 何度も父親の目を盗んで会いに来ていた自分を、あの輝かしいテラスの夜を、この少女はショックのあまり【すべて忘れてしまっている】のだと、その凍りついた視線だけで理解できた。
(……忘れたか。なら、それでいい)
かつての美しい思い出に縋るような真似はしない。そう決意したはずだった。しかし、ベッドの端に腰掛けた彼女の前に、透也は引き寄せられるように膝をついて座り、その痩せこけた小さな手を握った。
触れた瞬間、彼女の身体がびくりと震えた。
透也はその手を自分の額に当て、押し頂くようにして、静かに、声を殺して泣いていた。城瀬という歪な家の中で、自分を一人の人間として救ってくれた、あの眩しい光の喪失を悼むように。
それを、不思議そうに、でもゆっくりと顔を動かして紗奈が見下ろす。何も映していなかった彼女の白い瞳が、目の前で泣いている男をじっと捉えた。
「俺は、君の王子様にはなれない」
透也の掠れた声に、紗奈が小さく反応した。 彼女の乾いた唇が、記憶の深淵から手繰り寄せるように、ぽつりと、言葉を紡ぐ。
「お姫様のガラスの靴は、もう壊れちゃったから……」
その言葉が、透也の胸を容赦なく抉った。 忘れてもなお、彼女の魂の奥底には、あの夜の残骸が眠っている。お姫様にはもう戻れない。ガラスの靴は、両親の血の海の中で粉々に砕け散ってしまった。
透也はゆっくりと顔を上げ、涙の跡を完全に消し去ると、彼女の頬を強引に包み込んだ。 王子様になれないのなら、死神にでも、悪魔にでもなってやる。
「なら、捨てろ。そんな名前も、過去も、すべてあの夜に置いていけ」
透也は彼女の頬を強引に包み込み、自分を強制的に見つめさせた。
「私を見ろ。……早川紗奈」
その名前を呼んだ瞬間、紗奈の身体が、怯えたように微かに震えた。鉄錆の匂い、切り裂かれる肉の音──地獄の記憶だけが、その名前にへばりついている。
「嫌か。その名前が、それほど恐ろしいか。……なら、捨てろ。そんなものは、すべてあの夜に置いていけ」
透也は、自分の胸元に彼女の小さな頭を抱き寄せた。 温かな家族愛も、かつての美しい記憶も、もうこの世界には存在しない。
「今日からお前は、城瀬紗奈だ。私が、お前に新しい生き方を教える。私の隣で、私のためだけに呼吸をしろ」
胸の中で、紗奈の指先が、彼のシャツの袖を消え入りそうな力でぎゅっと握りしめた。 彼女にとっては、今この瞬間に自分を支配したこの冷徹な男こそが、人生で「最初に現れた」絶対的な主だった。
透也は、病院の医師たちが止めるのも聞かず、半ば強引に紗奈を城瀬の家へと連れ帰った。 退院の際、彼女には最低限の身だしなみを整えさせてはいたが、それを連れる透也の横顔にある焦燥までは隠しきれてはいない。
重い玄関の扉が開き、邸内へと足を踏み入れた瞬間、出迎えた母親が紗奈の姿を見て顔を凍らせた。 息を呑み、何とか声を絞り出す。
「あなた、何をしているの……。その子は、まさか……?」
「あぁ母さん。早川家の娘だよ」
透也は紗奈の肩を抱いたまま、抑揚のない声で平然と言い放った。
「私がこの子を妹として、両親の代わりにそばにいる。構わないだろう別に、誰も彼女を迎えに来ないんだから」
誰も、迎えに来ない。ならば、この世界で彼女に名前を与えられるのは、自分だけだ。
母親はそれ以上、何も言えなかった。息子の瞳の奥に宿る、他者の拒絶を許さない昏い光に、圧倒されてしまったかのように。
隣に立つ紗奈は、新しくあてがわれた衣服に身を包みながらも、やはり何も見つめてはいなかった。 ただ、自分の肩に置かれた透也の手の冷たさだけを、世界のすべてとして受け入れるように、静かにその場に佇んでいた。
夜、帰宅した透也の父親──城瀬和馬は、突然自分の家に持ち込まれた『異物』について話すため、透也を重厚な書斎へと呼び出した。 デスクの向こうに立つ父親の顔には、あからさまな不快感と怒りが刻まれている。
「何を考えている! お前に何の権限があって連れ帰ってきた。あの娘に必要なのは、二十四時間の監視と時間だ。お前がそんなことに時間を割いている暇はない」
父親の、冷徹なビジネスマンとしての、そして後継者たる息子を支配する親としての正論。
そしてその裏にあるのは、最大手警備会社であるS/F社が絶対に隠蔽しなければならない、【早川家の警備の失態】という致命的な防衛不祥事だった。
顧客を守れず、惨劇を許した。その唯一の生き残りであり、会社の「無能と失態」の動く証拠である紗奈を、病院という檻に隔離し、世間から隔離して飼い殺すこと──それこそが、社長である和馬の冷酷な計算だった。
しかし、透也は、そのデスクに両手を突くと、父親の欺瞞を切り裂くように低い声を叩きつけた。
「時間が経てば、紗奈が正気を取り戻すとでも? S/Fの失態を隠すために、あんな場所でどこにも行けず、ただ生かされている存在じゃないか」
「……透也」
「父さんが言っているのは、会社の汚れを隠蔽するために、彼女を都合よく狂わせたままにしておくことだ。病院のベッドで、心を失ったまま朽ちていくのが彼女の役目だと言うなら──そんなものは、俺が絶対に許さない」
二十二歳という、すでに一人の男としての力と冷徹な理性を備えた透也は、父親の威圧を正面からねじ伏せるようにして一歩も引かなかった。
「お前には、あの娘を動かす権限などない」
「権限なら、これから奪い取る。父さんが彼女を組織の都合で消すつもりなら、私はその組織の頂点に立ち、彼女を私の隣に立たせてみせる」
和馬は息子の瞳に宿る、自分をも凌駕せんとする傲慢な光と、一切の妥協を許さない狂気に、一瞬、言葉を失った。
二人の男が、一人の少女の所有権と、S/F社の血塗られた未来を巡って、初めて明確な決別を選んだ夜だった。




