62ー誤算
TSOのオフィスに、それまで張り詰めていた静寂が、ある種の「異質な緊張感」と共に破られた。
ガラス扉が開かれた瞬間、視線を集めたのは透也と紗奈だった。
透也はいつもの隙のない仕立てのスリーピースに身を包み、冷徹な仮面を纏っている。
だが、その右手に絡められた紗奈の指は、拒絶を許さないほど強く恋人繋ぎで固く結ばれていた。
生成り色の柔らかなワンピースを纏い、肩まで下ろした髪が揺れる。
以前の影のある姿からは想像もつかないほど、今の紗奈の表情は穏やかで、まるで初夏の陽光そのもののように清らかだった。
紗奈は迷いのない足取りで、デスクに座り込み、硬直していた洸樹の前まで歩み寄る。
彼女の瞳には、かつて自分を突き放していた頃の鋭さはなく、ただ目の前の男への純粋な情が宿っていた。
彼女がすっと手を伸ばし、洸樹のこめかみに貼られた痛々しい白い医療テープを指先でなぞる。
「ごめんね……?」
その囁きは、洸樹の鼓動を止めるには十分だった。
間近で覗き込まれる紗奈の瞳。慈しみに満ちたその表情の破壊力に、洸樹は思考の回路を焼き切られたかのようだった。
だが、その時間は、一瞬で凍りついた。
バシッ、と乾いた音が響いた。
洸樹の頭に澪のファイルが炸裂する。
「いってぇ!」
顔を上げた洸樹に、澪は無言で入口を示した。
そこに透也が立っていた。
表情は変わらない、いつものチーフだ。
だが洸樹は悟った。
(あ、俺死んだ)
理由は分からない。いや分かる。
紗奈が、自分に向けた“あの距離”。
たぶんそれだ。
紗奈が自然な動作で透也の隣へ戻った瞬間、オフィスの空気が少しだけ緩んだ。
透也も何も言わない。
それが当たり前だったかのように。
「いやいや反則だろ」
洸樹が頭を抱える。
「かわいすぎる」
「チーフが紗奈から目を離せない理由がわかった気がする」
澪は書類をめくる。
「あの子、人との距離感ばぐってるのよ」
「だよな!?」
「本人に自覚がないのが一番たち悪い」
「俺、ただ謝られただけだぞ?」
「だからよ」
澪は即答した。
「普通の人は謝る時に顔を十センチまで近づけない」
「十センチもなかった」
「黙りなさい」
洸樹はしばらく黙る。
「チーフすげぇな」
「何が」
「よく今まで理性保ったなと」
「チーフだからこそ今まで続いたんじゃない」
――確かに
この場にいる人間の共通認識だった。
和馬はあのパーティー会場の一幕を宛先不明のアドレスからの動画で見せられた。
黒いドレスを着た紗奈の前で、プロポーズでもするように片膝をつき、右手を差し出す背中。それは和馬知る息子の姿ではなかった。
和馬は、送られてきた動画を何度も見返した。画面の中の透也は、冷徹な帝王としての仮面をかなぐり捨て、一人の「男」として、ひれ伏している。
「……これが、お前の選んだ道か、透也」
和馬の声は、怒りよりも深い冷え込みを湛えていた。
そこに映っていたのは、自分の知る透也ではなかった。
紗奈を切り捨てるはずの男が、
彼女のためにすべてを捨てようとしている。
和馬は即座に連絡を取った。
「これはどういうことだ」
電話の向こうのレイモンドは、まるで優雅な午後のティータイムでも楽しんでいるかのように、愉快げに鼻を鳴らした。
「……協力者だと約束したはずだ。あの女を、透也から引き離すと」
「紗奈は私と一緒に来ると言いましたよ。それをあなたの息子が奪っていった」
和馬の手の中の万年筆が鈍い音を立てて軋んだ。
レイモンドは静かに、しかし断固とした口調で続けた。
「あなたは紗奈を一度も人間扱いしなかった。息子を守る道具として彼女の命を利用した。そして、今度は異物として排除しようとした」
和馬は黙った。
「……紗奈を透也を守る最強の盾として作り上げたのは、あなたの息子ではなく私ですよ、ミスター城瀬」
「そこをお忘れなく」
その指摘は、和馬にとって最大の屈辱だった。
和馬は窓の外、都会の喧騒を冷ややかな眼差しで見下ろした。
「まぁいい。契約は必ず履行される」
透也が婚約破棄になったというニュースより、あの理性の塊のような彼が人目もはばからず甘やかしている女性がいるという事実の方が社内を賑わせていた。
タブレットの画面には、会社のロビーで向かい合う二人の姿が映っていた。
透也が笑っている。和馬はその顔を知らなかった。紗奈も笑っていた。その顔もまた、和馬の知らないものだった。
和馬には最後まで理解できなかった。
なぜ透也が、
家でも地位でもなく、
たった一人の女を選んだのか。




