61―本質
ホテルの窓から、朝の陽ざしが差し込んでいた。
紗奈はベッドの上で、同じくバスローブを纏った透也の腕の中にいた。
それでも、頭の中では昨夜から同じことを繰り返している。
(どうして……)
自分は、彼に見限られたと思っていた。
彼の前から、一生消えるつもりだった。
それなのに。
「お前、また余計なこと考えているだろ」
背後から透也の声が響く。
「……結婚するんじゃなかったの?」
「そのつもりはなかった。父が勝手に話を進めただけだ。いつものようにな」
「私は、今度こそ本当にするんだと思って」
紗奈が気まずそうに身体を縮こませる。
「だから俺の前で、レイの恋人のふりを?」
「あなたに、私も一人じゃないって見せれば……安心すると思ったから」
透也は絶句した。
「……もう少しましな方法を考えろ」
「ましって……」
「俺がお前に強引に手を出したから、嫌いになったんじゃなかったのか」
「最初はそう思った」
紗奈は俯いた。
「あなたが私を、ずっと護衛じゃなくて普通の女として見ていたって分かって……許せなかった。必死で身につけた技術を、全部否定されたんだって思ったら」
透也は何も言えなかった。
そんな風に紗奈が感じていたなんて、露ほども思っていなかった。
「でも……思い出したの」
紗奈が小さく息を吐く。
「出会った時、あなたに抱きついた自分を」
透也の眉がわずかに動く。
「そのせいで、あなたは私を無視できなくなったんだって」
「何の話だ?」
「お前と初めて会った時のことは覚えているが」
「かわいそうだと思ったんでしょ?」
紗奈の声が少しずつ細くなる。
「事件の後も。あなたが私を引き取る必要なんて、一つもなかったのに」
その事実を口にすることが苦しいかのように、紗奈は絞り出した。
「……お前、ずっとそんな風に思っていたのか」
透也の声が低くなる。
「俺が同情で、お前をそばに置いたと」
紗奈は答えない。
透也はその身体を抱き寄せる。
「お前が俺を居場所にしてきたように、俺もお前を必要としてきたんだ」
腕に力がこもる。
「抱きつかれた瞬間に、お前に心を奪われた」
紗奈が、少し嫌そうな顔をした。
「その時、私はまだ九歳だよ」
「引くな」
透也が眉を寄せる。
「お前が大人になるまで待つつもりだったんだよ」
「じゃあ、何で……」
「お前が俺から離れようとするからだ」
「めちゃくちゃだよ、透也」
「ああ」
透也は素直に認めた。
「先に言葉にして、お前を安心させるべきだったな」
紗奈は透也の腕から抜け出した。
ベッドの上に膝を折り、足を外側へ崩して座る。
そのまま、透也を見下ろした。
下ろした黒髪が、ふわりと揺れる。
「本当に、私のことが好きなのね」
紗奈が笑った。
透也は息を止めた。
「……透也?」
「お前の笑顔が眩しすぎて、心臓が止まりかけた」
紗奈は目を見開く。
その意味を理解するまで、一拍。
次の瞬間。
白い頬が、朝の陽ざしよりも鮮やかな赤に染まった。
(だめだ)
透也は、思考が甘くほどけていくのを感じた。
頬へ手を伸ばす。
紗奈は逃げなかった。
むしろ、子猫が甘えるように、その手のひらへ頬を寄せる。
鼓動が跳ね上がる。
空気が、ほんの少しだけ変わった。
「お前は俺を殺す気か……」
透也は小さく呟いた。
そして。
「紗奈。婚約しよう」
紗奈は一瞬だけ息を止めた。
驚いたわけではない。
言葉の意味が、ゆっくりと胸の奥へ届くまでの停止だった。
「俺と正式に婚約すれば、もう誰にもお前を妹だとは言わせない」
紗奈は黙って透也を見る。
「俺は会社を辞めてもいい。必要なら、今まで持っていたものを全部捨ててもいい」
「……しなくていい」
紗奈はすぐに首を振った。
「そんなことしなくても、私はあなたのものだから」
その言葉は、告白というより事実の確認だった。
透也は、少しだけ眉を寄せる。
「俺は、お前を絶対に一人にはしない」
その言葉に、紗奈の中の何かがわずかに揺れた。
沈んでいた場所へ、手が伸びてくる。
掴まれるというより、引き上げられる。
(……一人に、ならない)
その一点だけが、ゆっくりと輪郭を持つ。
「なんで……」
紗奈の声が震える。
「好きだからだ」
即答だった。
迷いがない。
だからこそ、その言葉には妙な現実味があった。
「それだけ?」
紗奈は確かめるように聞いた。
透也は迷わない。
「それだけで十分だ」
その言葉を聞いた瞬間。
紗奈は、ようやく少しだけ息を吐いた。
透也が紗奈を抱きしめる。
その腕の中は、もう何かを証明するための場所ではなかった。
逃げ道でもない。
ただ、今ここにいる二人のための場所だった。
紗奈は目を閉じる。
もう、この腕の中が安全かどうかを考えることをやめた。
ただ、離れなかった。




