60―輪舞
紗奈の指先が透也の手に重なる。
透也がその手を握る。
会場は静まり返っている。
誰も声を出せない。
紗奈だけが透也を見る。
「どうしてそこまで……」
透也は答える。
「お前だけが俺を見たからだ」
しゃがみ込んだ二人に震えた声が落ちる。
「透也さん、これは何ですか?」
婚約者の声だった。
透也は紗奈の手を握りながら一緒に立ち上がった。
透也は一度だけ視線を向ける。
そして静かに言う。
「結婚する気はないと、言ったはずです」
空気がわずかに揺れる。
「そんなこと……今さら許されると思っているんですか」
感情の混じった声だった。
恵美の視線が、二人の繋がれた手へ落ちる。
「その方は妹で、ただの護衛でしょ」
声が震える。
「ずっとあなたの将来を邪魔してきただけの……」
紗奈は、透也に握られた手を引こうとした。
だが、その前に透也の指に力がこもる。
逃がさない。
「やはり噂通り、あなたは妹をそういう目で……」
レイモンドが、面白そうに眉を上げた。
「お前、やっぱりそういう目で見られていたのか」
「うるさい」
透也が即座に返す。
だが、恵美の言葉を否定することはなかった。
「俺が守りたいと思った、唯一の相手だ」
紗奈の瞳が揺れる。
(守る……?)
胸の奥に、何かが引っかかった。
(私が透也を守っていたんじゃなくて……)
「同じことじゃない!」
恵美の声が響いた。
「あなたも、あなたよ!」
その視線が紗奈へ向く。
「自分の立場を分かっているの!?」
紗奈の肩が、わずかに揺れた。
「私は……」
何かを答えようとする。
けれど、言葉が続かない。
透也が紗奈を見る。
そして、静かに首を振った。
もう答えなくていい。
それだけで伝わる仕草だった。
その瞬間。
恵美の表情が強張った。
自分の前で交わされた、その無言のやり取り。
言葉すら必要としない二人の距離。
それが、何よりも彼女を傷つけた。
興奮を沈めようと澪が割って入り彼女の両肩に手を触れる。
「小松様、いったんこちらへ」
彼女は寄りかかったテーブルにあった水のグラスに手を伸ばした。
透也に水をかけようとした瞬間、紗奈の視界の中で危険判定が点灯した
――まずい
洸樹が反射的に二人の間へ割って入る。
紗奈の右手が走る。
爪がこめかみを裂く。
本来なら洸樹の頸動脈へ届くはずだった軌道が、寸前で逸れた。
「つ……!」
血が頬を伝った。
「洸樹っ!」
澪が言う。
「俺は大丈夫だ」
「何なの一体……?」
彼女はグラスを手にしたまま、慄いた。
その中で、レイモンドだけが片手で目元を覆った。
肩がわずかに震える。
「……っ」
会場全体が凍り付いていた。
透也は何も言わず、紗奈の指先についた血をポケットチーフで拭う。
紗奈が怪訝そうに見る。
「レイ?」
「いや」
珍しく声が揺れていた。
「やっぱりお前たち面白すぎる」
透也が溜息を吐く。
「笑い事か」
レイモンドは洸樹に自分のハンカチを差し出した。まだ笑っている。
洸樹は頭を軽く下げ、それで傷口を押さえる。
「五年前なら死んでたな」
「……笑えないです」
まるで日常会話のようなやりとりに会場はますます静かになっていった。
当人たちだけが、その理由を理解していなかった。
洸樹は傷口を押さえていた。
澪は頭を抱えていた。
レイモンドはまだ笑っていた。
そして透也は、紗奈の手を綺麗にし終えていた。




