59―誓約
レイモンドの手に顎を預けたまま、紗奈の視線が透也と交差する。
その瞳の奥に宿る色は、かつての依存や熱情とは異なる。
それは、深い慈しみにも似た諦念と、何かを断ち切った後の清廉な冷たさだった。
(幸せになって、私を忘れて……)
これは、彼を九年もの間、自分だけの世界に縛り付け、自分自身をもその牢獄に閉じ込めてしまった紗奈の「償い」だった。
(好きだった)
今さら認めても、何も変わらないのに。
透也が自分の手を離さないなんてただの自惚れだった。
――盾として消えることさえ失敗した。
紗奈の唇は微かに動いただけで、言葉は発せられなかった。
しかし、その刹那的な表情の変化は、すべてを悟ったかのように透也の胸を抉る。
透也の視線が、レイモンドに添えられた紗奈の手元へと落ちた。
そこには、彼女の微かな震えがあった。
「待て」
透也は一歩踏み出す。
そして、紗奈の前で跪いた。
会場の空気が止まる。
その背に背負う地位も、婚約者の存在も、すべてを投げ打ったあまりに狂気じみた行動に、会場中の視線が突き刺さる。
だが透也にとって、その視線はもう意味を持たない。
失うことは怖くなかった。
紗奈を失うことだけが怖かった。
紗奈は動けない。
止めたいのに、声が出ない。
それは恐怖ではなく、理解が追いつかない沈黙だった。
絶対王者が、ただ一人の少女の前で跪いている。
秩序が反転しているのに、誰もそれを止められない。
「チーフ、まじかよ」
洸樹がつぶやく。
透也は紗奈を見上げる。
そして静かに言う。
「俺を愛しているなら、この手を取れ。ただし」
声がわずかに低くなる。
「この手を取ったなら、俺はお前を一生離さない」
透也は手を差し出した。
透也にとっては、最初から差し出されるはずだった手だった。
「透也、ここがどこかわかっているの?」
紗奈の声は震えている。
「全て失うわよ」
それは彼への警告であり、彼を想うがゆえの悲鳴だった。
「どうでもいい。俺に残るものの話はしていない」
透也の差し出された手は、震えていた。
レイモンドが冷ややかな目で事の推移を見守る中、紗奈の視界が涙で滲む。
背中のスワロフスキーが重く感じられた。
会場中の人間が、次の瞬間を息を殺して見守っている。
「……私の、王子様」
小さな声。
確認のような呼びかけ。
救いではない。
再認識。
「そうだ」
透也の声が、初めてわずかに揺れる。
「俺はお前の、ただ一人だ」
静かすぎるその言葉は、勝利ではない。
崩壊を押し止めている音だった。
紗奈はゆっくりと膝を折る。
もう、誰の言葉も聞こえなかった。
透也の差し出した手だけを見つめる。
その手を取れば、すべてが変わる。
彼の地位も。
自分の未来も。
きっと、もう二度と以前のようには戻れない。
それでも。
紗奈は、自分の意思で手を伸ばした。
指先が、透也の手に触れる。
黒いドレスが床へと広がった。
まるで夜そのものが、そこに沈むように。




