58―幕開け
監査から一週間が経とうとしていた。
紗奈は、日本に滞在しているホテルの部屋でレイモンドの肩越しにノートパソコンを覗き込んでいた。紗奈の髪がレイモンドの肩に落ちる。
画面には、透也と並んで、別の女性の顔が表示されている。
料亭の座敷。
整えられた空間。
婚約の席だとすぐに分かる構図だった。
さらに、二人が並んで日本庭園で仲慎ましく会話をしている場面。
「城瀬透也が婚約したそうだ」
レイモンドは画面から目を離さないまま、淡々と言った。
「お前が何かするまでもなかったな」
「そう」
紗奈は短く答える。
「良かった」
自分の声が妙に他人事のように聞こえた。
「……それでも君はやるのか?」
紗奈は逡巡する。
透也からあえて嫌われる必要がなくなった。
それならそれで良い。だが、紗奈の気持ちの整理は着いていない。
「透也に最後、お別れをしたい」
「なるほど。だが、話し合う気はないのか」
「透也は私を捨てた。それ以上何があるの?」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥から何かが静かに抜け落ちる。
痛みではない。
破裂でもない。
ただ、体温だけが少しずつ失われていくような感覚だった。
彼は、自分のいるべき場所に戻った。
それは本来、喜ばしいことのはずだった。
レイモンドは何も言わないまま、紗奈の肩を軽く叩く。
慰めでもなく、確認でもない。
ただ“終わった事実”への動作のように。
そして立ち上がると、そのまま部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、やけに遠く響いた。
静寂が落ちる。
その瞬間だった。
紗奈の呼吸が崩れる。
「……つ、透也……」
その名前を呼んだ瞬間、
自分が泣いていることに気づいた。
床に手をついたまま、動けなかった。
透也は婚約者を伴い、レセプションパーティの会場にいた。
音楽も会話も、一定の秩序の中で流れている。
その中で、ひとつだけ雑音が入る。
レイモンドが遅れて姿を現した。
視線が自然と集まる。
透也はその方向へ歩き出そうとして——
一歩、踏み出したところで止まる。
レイモンドの背後に、もう一つの影があった。
漆黒のドレス。ハイヒール。綺麗にメイクアップされた横顔。
背中は大胆に開かれ、スワロフスキーのチェーンが光を拾いながら揺れている。
静かなのに、場の空気だけが少しだけ変質する。
その顔を見た瞬間、透也の思考が一瞬だけ途切れる。
紗奈の姿を見た、警備にあたっていた洸樹と澪は会場の離れた場所で目を見合わせた。
「紗奈、何を考えているの」
澪が小さく呟く。
「いや」
洸樹が乾いた声で言う。
「何考えてるかは分かる」
「問題はチーフがどうなるかだ」
「……紗奈」
声は出るが、続かない。
「やぁ、透也。婚約おめでとう」
レイモンドがシャンパングラスを片手に言う。
間を置かず、続ける。
「私もやっと、一人に決めたよ」
レイモンドがわずかに視線を動かす。
グラスをテーブルに置くと紗奈の顎に手を添え、自然な動作で自分の方へ向ける。
紗奈の耳元を飾るダイヤのイヤリングが揺れる。
その動作には、所有者としてではなく、対等なパートナー、あるいはより親密な関係を誇示するような余裕が滲んでいた。
紗奈は人形のように従順に顔を向けられたが、その瞳に透也を捉えても、かつてのように怯えることも、親愛に満ちた目でもない。ただ、氷のように冷ややかな、見知らぬ他人のような視線が透也を射抜いただけだった。
「何の冗談だ」
「お前が紗奈を選ぶはずがない」
透也の声は低かった。
レイモンドは否定しない。
代わりに、淡々と言う。
「そうかもしれないな」
「だが私は、彼女の選択に答えた」
レイモンドの視線が透也を通り過ぎる。
そのまま言葉を落とす。
「お前はこの瞬間でさえ、まだ“定義”を外に出せない」
傍らに立つ婚約者が怪訝な顔で「透也さん?」と声をかけてくるが、その声すらも遠く霞んで聞こえない。
透也は自身の拳を硬く握りしめた。
指が食い込む。
皮膚が裂け、血が滲む。
(……紗奈、お前)
恐いと言って逃げたはずの紗奈が、今はレイモンドの手の下で微動だにしない。
その光景が、透也のプライドをズタズタに切り裂いていく。
透也は一歩、レイモンドへ踏み出そうとした。
だが、今の紗奈の瞳を見た瞬間、その一歩が恐怖に似た何かに阻まれる。
彼女は、透也のことをまるで「終わった過去」のように見下ろしている。
握りしめた拳から血が滲んでいることに、透也はまだ気づかない。
自分が今、かつてないほど無力であるという現実に、息をすることさえ忘れていた。




