↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
8 Hollow Anchor 空虚な碇

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/64

57―可逆

 薫が紗奈の肩に手を添え、優しく部屋へ戻らせる。

紗奈はソファの背に身を預けるようにして目を閉じた。

同時に、涙が一つ、頬を伝って落ちていく。

薫がカップを手にして戻ってきた。

「紗奈……?」

「薫先生じゃ、透也から私を切り離せない」

紗奈は目を閉じたまま呟いた。

「先生は透也の友達だから」

「確かに透也とは友人だけど、君は僕の患者でもある。患者を守るのも医者の仕事だよ」

「先生は、透也が私を自由にすると本気で思っているの?」

「だとしても、彼の近くにいて君が不本意に傷つけられていいことにはならない」

薫の声が少し低くなる。

「透也が最近、君にしていることは、自分の立場を利用した傲慢な所有だよ」

「それなら……私の所有者を変える」

紗奈の目に、暗い決意の光が宿った。

「紗奈。だから、その考え方が間違っていると言っているだろ」

だが、紗奈の目はもう薫を見ていない。

もっと遠くの何かを見ていた。

(……レイならできる)


十五歳のときも、レイは自分を透也から引き離した。

一年間。

二人を完全に遠ざけた。

それに――

透也も、レイには敵わない。 


紗奈は部屋に戻るとスマートフォンを取った。

レイモンドの番号を呼び出す。

コールはすぐに繋がった。

『紗奈、お前今どこだ』

低い声。

いつも通りのはずなのに、遠い。

「薫先生のマンション」

『ナイフは』

少しの沈黙。

「……もういい」

『……』

空気が変わる。

「透也を、私から切り離して」

沈黙。

「私と二度と会いたくないって思うぐらい」

それだけを言う。それ以上は何も足さない。

『……いいのか、それで』

問いではない。確認でもない。ただの最後通告に近い。

紗奈は少しだけ間を置いた。

「いい」

それだけだった。


 レイモンドとの通話を終え、紗奈が荷物をまとめていた背中に、薫がすがるように問いかける。

その声には焦りが混じっていた。

救いたい。

それだけは伝わる。

だが何を言えばいいのか、薫自身にも分かっていなかった。


「紗奈、どうして戻ろうとするんだ……? これからは、普通に生きられる」

紗奈は手を止めた。ゆっくりと、薫の方へ振り向く。

その表情は、これまでのどれとも違っていた。

怯えでもない。

壊れでもない。

ただ静かだった。

過去を一度、引き受けてしまった人間の顔だった。


「先生」

紗奈は静かに言う。

「私、思い出したの」


薫の喉がわずかに動く。

「……透也を縛ったのは、本当は私だった」


一歩、距離を取る。

それは逃げではなく、線引きだった。

「たとえそうだったとしても」

薫が言う。

「君はまだ子どもだ」


「それで何かが軽くなるわけじゃない」

紗奈は答えない。

代わりに、薫の手をそっと振り払った。


床に落ちていたペンを拾うと、それを指先で軽く回す。まるで重量の確認でもするように。

「……城瀬紗奈の人生を終わらせる」


薫の表情が固まる。

意味を理解できていない。

紗奈は続ける。

「そして、二度と透也の邪魔をしない」


一方、薫のマンションへ踏み込んだ透也の表情は、すでに平常ではなかった。

扉が開く音は、ノックではなく衝撃だった。


次の瞬間、薫の胸ぐらが掴み上げられ、壁に押し付けられる。

乾いた音が部屋に落ちる。

「薫……お前を信用して預けた結果がこれか」

声は低い。

だが怒鳴り声よりも、ずっと圧がある。


それは怒りというよりも、                           

怒りではない。

焦燥だった。

手の届く場所にいたはずの紗奈が、完全に消えた。


「よりによってレイモンドだと……?」

薫は痛みに顔を歪めながらも、視線だけは逸らさない。

「紗奈は……何かを思い出したみたいだった」

「何をだ」

透也の声が一段だけ落ちる。

「君を縛ったのは自分だと……そう言っていた」

一瞬、間が空く。


「そんなことはどうでもいい」

その言葉には感情がない。

だが、冷静でもない。


薫の身体を掴む手に、わずかな力の揺れが出る。

透也は一度だけ目を伏せる。

そして、静かに言う。


「紗奈がアメリカに行けば、もう俺には手を出せない」


それは脅しでも、怒りでもない。

ただの事実認識だった。


紗奈は、TSOからも透也のそばからも姿を消した。

TSOは変わらず回っていた。

会議も護衛計画も通常通り進む。

まるで最初から紗奈など存在しなかったように。

洸樹がデスクに座りながら、言う。

「チーフも冷たいな。初めから紗奈なんかいなかったみたいに」

澪が端末から顔をあげて、モニター越しに洸樹を見る。

「二人に毒されすぎよ……。今までが異常だったの」

「梶リーダーも紗奈の行方知らないんですか?」

「……」

梶は目を伏せただけだった。


 ほどなくして、透也が製薬会社の令嬢と婚約したことが公表された。

そのニュースを聞いた洸樹は頭の上で腕を組み、カフェで澪を前にして言う。

「信じられねぇ。見損なったわ、男として」

「そう?当人同士の問題でしょ」

イチゴスムージーのストローを指先でいじりながら澪が言う。

「そもそも恋人じゃなかったのかも、あの二人……」

あの紗奈の異常な献身は崇高にも見えた。

「そうだったとしてもこんな結末かよっ」

洸樹は吐き捨てるように言った。


(第八幕――完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。