57―可逆
薫が紗奈の肩に手を添え、優しく部屋へ戻らせる。
紗奈はソファの背に身を預けるようにして目を閉じた。
同時に、涙が一つ、頬を伝って落ちていく。
薫がカップを手にして戻ってきた。
「紗奈……?」
「薫先生じゃ、透也から私を切り離せない」
紗奈は目を閉じたまま呟いた。
「先生は透也の友達だから」
「確かに透也とは友人だけど、君は僕の患者でもある。患者を守るのも医者の仕事だよ」
「先生は、透也が私を自由にすると本気で思っているの?」
「だとしても、彼の近くにいて君が不本意に傷つけられていいことにはならない」
薫の声が少し低くなる。
「透也が最近、君にしていることは、自分の立場を利用した傲慢な所有だよ」
「それなら……私の所有者を変える」
紗奈の目に、暗い決意の光が宿った。
「紗奈。だから、その考え方が間違っていると言っているだろ」
だが、紗奈の目はもう薫を見ていない。
もっと遠くの何かを見ていた。
(……レイならできる)
十五歳のときも、レイは自分を透也から引き離した。
一年間。
二人を完全に遠ざけた。
それに――
透也も、レイには敵わない。
紗奈は部屋に戻るとスマートフォンを取った。
レイモンドの番号を呼び出す。
コールはすぐに繋がった。
『紗奈、お前今どこだ』
低い声。
いつも通りのはずなのに、遠い。
「薫先生のマンション」
『ナイフは』
少しの沈黙。
「……もういい」
『……』
空気が変わる。
「透也を、私から切り離して」
沈黙。
「私と二度と会いたくないって思うぐらい」
それだけを言う。それ以上は何も足さない。
『……いいのか、それで』
問いではない。確認でもない。ただの最後通告に近い。
紗奈は少しだけ間を置いた。
「いい」
それだけだった。
レイモンドとの通話を終え、紗奈が荷物をまとめていた背中に、薫がすがるように問いかける。
その声には焦りが混じっていた。
救いたい。
それだけは伝わる。
だが何を言えばいいのか、薫自身にも分かっていなかった。
「紗奈、どうして戻ろうとするんだ……? これからは、普通に生きられる」
紗奈は手を止めた。ゆっくりと、薫の方へ振り向く。
その表情は、これまでのどれとも違っていた。
怯えでもない。
壊れでもない。
ただ静かだった。
過去を一度、引き受けてしまった人間の顔だった。
「先生」
紗奈は静かに言う。
「私、思い出したの」
薫の喉がわずかに動く。
「……透也を縛ったのは、本当は私だった」
一歩、距離を取る。
それは逃げではなく、線引きだった。
「たとえそうだったとしても」
薫が言う。
「君はまだ子どもだ」
「それで何かが軽くなるわけじゃない」
紗奈は答えない。
代わりに、薫の手をそっと振り払った。
床に落ちていたペンを拾うと、それを指先で軽く回す。まるで重量の確認でもするように。
「……城瀬紗奈の人生を終わらせる」
薫の表情が固まる。
意味を理解できていない。
紗奈は続ける。
「そして、二度と透也の邪魔をしない」
一方、薫のマンションへ踏み込んだ透也の表情は、すでに平常ではなかった。
扉が開く音は、ノックではなく衝撃だった。
次の瞬間、薫の胸ぐらが掴み上げられ、壁に押し付けられる。
乾いた音が部屋に落ちる。
「薫……お前を信用して預けた結果がこれか」
声は低い。
だが怒鳴り声よりも、ずっと圧がある。
それは怒りというよりも、
怒りではない。
焦燥だった。
手の届く場所にいたはずの紗奈が、完全に消えた。
「よりによってレイモンドだと……?」
薫は痛みに顔を歪めながらも、視線だけは逸らさない。
「紗奈は……何かを思い出したみたいだった」
「何をだ」
透也の声が一段だけ落ちる。
「君を縛ったのは自分だと……そう言っていた」
一瞬、間が空く。
「そんなことはどうでもいい」
その言葉には感情がない。
だが、冷静でもない。
薫の身体を掴む手に、わずかな力の揺れが出る。
透也は一度だけ目を伏せる。
そして、静かに言う。
「紗奈がアメリカに行けば、もう俺には手を出せない」
それは脅しでも、怒りでもない。
ただの事実認識だった。
紗奈は、TSOからも透也のそばからも姿を消した。
TSOは変わらず回っていた。
会議も護衛計画も通常通り進む。
まるで最初から紗奈など存在しなかったように。
洸樹がデスクに座りながら、言う。
「チーフも冷たいな。初めから紗奈なんかいなかったみたいに」
澪が端末から顔をあげて、モニター越しに洸樹を見る。
「二人に毒されすぎよ……。今までが異常だったの」
「梶リーダーも紗奈の行方知らないんですか?」
「……」
梶は目を伏せただけだった。
ほどなくして、透也が製薬会社の令嬢と婚約したことが公表された。
そのニュースを聞いた洸樹は頭の上で腕を組み、カフェで澪を前にして言う。
「信じられねぇ。見損なったわ、男として」
「そう?当人同士の問題でしょ」
イチゴスムージーのストローを指先でいじりながら澪が言う。
「そもそも恋人じゃなかったのかも、あの二人……」
あの紗奈の異常な献身は崇高にも見えた。
「そうだったとしてもこんな結末かよっ」
洸樹は吐き捨てるように言った。
(第八幕――完)




