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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
8 Hollow Anchor 空虚な碇

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56-廃棄物②

 怖くなかった。

むしろ――安心してしまった。

『王子様を待っていたの』

声に出したのは、自分だ。喉が勝手に動いた。

その瞬間、青年の視線がわずかに揺れた。

――そこで、映像が途切れる。

現実に戻る。

紗奈はベランダの手すりを強く握っていた。

息が浅い。

(違う)

(私は何もしていない)

そう思おうとして、すぐに否定が割り込む。

違うのではない。

“最初に動いたのは自分だ”。

記憶の場面が、もう一度、別の角度から浮かぶ。

テラスの青年。

膝をついた男。

その距離を詰めたのは、彼ではなかった。

自分だ。

あのとき。

怖くなかったから。

安心してしまったから。

逃げる理由がなかったから。

腕を伸ばした。首に触れた。

その瞬間、世界の境界が曖昧になった。

彼が入ってきたのではない。

自分が、入れてしまった。


「……私が」

声が漏れる。喉が震える。

違うと言い切れない。言い切るための材料が、どこにもない。

だから、認めるしかなかった。

(私が、選んだ)

その認識が落ちた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。

守られていたのではない。

救われていたのでもない。

始めたのは、自分だった。

紗奈はゆっくりと目を閉じる。

そのとき、もう一つの感覚が混ざった。


背後で窓が開く音がする。

薫の声が遠く聞こえた気がした。

だが、紗奈は振り返らない。

まだ、戻れない。まだ、この記憶の輪郭が消えていない。

空を見上げる。

夜が少しずつ濃くなっていく。

そして、その中で、ひとつだけ確かなことがあった。


跪く。

その言葉の意味が、ようやく形になる。

あの夜、彼は膝をついた。

自分の目線まで降りてきた。

それが最初だった。

(私が、彼を呼んだ)

その事実だけが、静かに胸の中に沈んでいく。


 透也は和馬に指示され、昼過ぎに指定された料亭へ向かった。

料亭の座敷に入った瞬間、透也は足を止めた。

この前から見合いをしていた製薬会社の令嬢。

その隣には彼女の両親。

そして部屋の端には、見覚えのない男がカメラを構えている。

数秒で状況を理解した。

「……そういうことか」

父親は、最初からこれを仕組んでいた。

帰ることもできた。

だが、今ここで席を立てば、相手の家族まで巻き込む。


透也は何も言わず、用意された席についた。

「お待たせして申し訳ありません」

「いえいえ、城瀬さんは多忙でいらっしゃるでしょうから。手短に済ませましょう」

「そうでしたか。父から何も聞いていなかったもので」

テーブルの上には、深紅のダリアや白いトルコキキョウが品よく生けられている。

透也は彼女に視線を交わすことも、気遣う言葉をかけることもない。

その異様な透也の様子に、場の空気が一段下がった。

だが、両親の心配をよそに、恵美は何でもない顔をしていた。

むしろ、透也がここへ来たことを喜んでいるようにさえ見える。

写真撮影を終えると、父親が娘に目配せをした。

「透也さん、少し歩きませんか?」

「ええ、構いませんよ」


 恵美が草履を履くのに、透也が自然と手を差し出す。

恵美はその手を取り、立ち上がった。

二人は庭園へ出る。

「本日も、お会いできて嬉しいです」

「申し訳ありません。父がどういう話をしたのかは知りませんが、私自身は正式に婚約について何も聞かされていません」

「では……このお席も?」

「私には説明されていません」

恵美は少し黙って、隣を歩く透也を見上げた。

透也は庭園の景色を眺めている。

「ですが、私たちは幼い頃からお家同士のお付き合いもあります」

「何の障害がありますか?」

「障害ですか」

「いつまで妹さんのお世話をされるおつもりですか?もうすぐ高校を卒業されるとか」

「……」

「解放して差し上げては?」

透也のまとう空気が、あからさまに変わった。

「どういう意味でしょうか」

「妹さんがいたから、あなたは今までご結婚されなかったのでは」

「妹は関係ありません」

透也は淡々と言った。

「結婚は私の問題で、城瀬家の問題でもない」

恵美は少しだけ目を伏せる。

「私は子どもさえ産めば、責任を果たしたことになります。それ以上はあなたに求めません」

透也は意外そうに恵美を見る。

そして、足を止めた。


「……形だけの結婚でも良いと?」

「ええ。あなたには想い人がいると聞かされましたから」

 透也は、拳を握りしめた。

「父が勝手に言っているだけだ」

「いないのなら、なおさら何も問題ありませんよね」

「……」

「それとも」

恵美が、ゆっくりと透也を見る。

「妹さんのことを言っているのかしら」

透也の目が、すっと細くなった。

「どういう意味だ」

「噂になっていないとでも?」

恵美の声は、あくまで穏やかだった。

「あなたがあの子に目をかけていることくらい、周囲も知っています」

「護衛までさせて、身の回りのことまで気にかけて……あれだけ世話を焼いている」

「妹だからだ」

「血の繋がりはありませんよね」

恵美は静かに言った。

「あなたの将来のためにも、結婚は必要では?」

「生憎、世間が何と言おうが興味はない」

恵美は返す言葉を失った。

透也はそれ以上何も言わず、踵を返した。

そのまま庭を抜けていく。

恵美は、遠ざかる背中を黙って見つめていた。


 透也は車の運転席に乗り込むと、ネクタイの結び目に指を入れ、緩めた。

「……紗奈」

気づけば、その名前を口にしていた。

(お前は今、何を考えている)

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