56-廃棄物②
怖くなかった。
むしろ――安心してしまった。
『王子様を待っていたの』
声に出したのは、自分だ。喉が勝手に動いた。
その瞬間、青年の視線がわずかに揺れた。
――そこで、映像が途切れる。
現実に戻る。
紗奈はベランダの手すりを強く握っていた。
息が浅い。
(違う)
(私は何もしていない)
そう思おうとして、すぐに否定が割り込む。
違うのではない。
“最初に動いたのは自分だ”。
記憶の場面が、もう一度、別の角度から浮かぶ。
テラスの青年。
膝をついた男。
その距離を詰めたのは、彼ではなかった。
自分だ。
あのとき。
怖くなかったから。
安心してしまったから。
逃げる理由がなかったから。
腕を伸ばした。首に触れた。
その瞬間、世界の境界が曖昧になった。
彼が入ってきたのではない。
自分が、入れてしまった。
「……私が」
声が漏れる。喉が震える。
違うと言い切れない。言い切るための材料が、どこにもない。
だから、認めるしかなかった。
(私が、選んだ)
その認識が落ちた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
守られていたのではない。
救われていたのでもない。
始めたのは、自分だった。
紗奈はゆっくりと目を閉じる。
そのとき、もう一つの感覚が混ざった。
背後で窓が開く音がする。
薫の声が遠く聞こえた気がした。
だが、紗奈は振り返らない。
まだ、戻れない。まだ、この記憶の輪郭が消えていない。
空を見上げる。
夜が少しずつ濃くなっていく。
そして、その中で、ひとつだけ確かなことがあった。
跪く。
その言葉の意味が、ようやく形になる。
あの夜、彼は膝をついた。
自分の目線まで降りてきた。
それが最初だった。
(私が、彼を呼んだ)
その事実だけが、静かに胸の中に沈んでいく。
透也は和馬に指示され、昼過ぎに指定された料亭へ向かった。
料亭の座敷に入った瞬間、透也は足を止めた。
この前から見合いをしていた製薬会社の令嬢。
その隣には彼女の両親。
そして部屋の端には、見覚えのない男がカメラを構えている。
数秒で状況を理解した。
「……そういうことか」
父親は、最初からこれを仕組んでいた。
帰ることもできた。
だが、今ここで席を立てば、相手の家族まで巻き込む。
透也は何も言わず、用意された席についた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえいえ、城瀬さんは多忙でいらっしゃるでしょうから。手短に済ませましょう」
「そうでしたか。父から何も聞いていなかったもので」
テーブルの上には、深紅のダリアや白いトルコキキョウが品よく生けられている。
透也は彼女に視線を交わすことも、気遣う言葉をかけることもない。
その異様な透也の様子に、場の空気が一段下がった。
だが、両親の心配をよそに、恵美は何でもない顔をしていた。
むしろ、透也がここへ来たことを喜んでいるようにさえ見える。
写真撮影を終えると、父親が娘に目配せをした。
「透也さん、少し歩きませんか?」
「ええ、構いませんよ」
恵美が草履を履くのに、透也が自然と手を差し出す。
恵美はその手を取り、立ち上がった。
二人は庭園へ出る。
「本日も、お会いできて嬉しいです」
「申し訳ありません。父がどういう話をしたのかは知りませんが、私自身は正式に婚約について何も聞かされていません」
「では……このお席も?」
「私には説明されていません」
恵美は少し黙って、隣を歩く透也を見上げた。
透也は庭園の景色を眺めている。
「ですが、私たちは幼い頃からお家同士のお付き合いもあります」
「何の障害がありますか?」
「障害ですか」
「いつまで妹さんのお世話をされるおつもりですか?もうすぐ高校を卒業されるとか」
「……」
「解放して差し上げては?」
透也のまとう空気が、あからさまに変わった。
「どういう意味でしょうか」
「妹さんがいたから、あなたは今までご結婚されなかったのでは」
「妹は関係ありません」
透也は淡々と言った。
「結婚は私の問題で、城瀬家の問題でもない」
恵美は少しだけ目を伏せる。
「私は子どもさえ産めば、責任を果たしたことになります。それ以上はあなたに求めません」
透也は意外そうに恵美を見る。
そして、足を止めた。
「……形だけの結婚でも良いと?」
「ええ。あなたには想い人がいると聞かされましたから」
透也は、拳を握りしめた。
「父が勝手に言っているだけだ」
「いないのなら、なおさら何も問題ありませんよね」
「……」
「それとも」
恵美が、ゆっくりと透也を見る。
「妹さんのことを言っているのかしら」
透也の目が、すっと細くなった。
「どういう意味だ」
「噂になっていないとでも?」
恵美の声は、あくまで穏やかだった。
「あなたがあの子に目をかけていることくらい、周囲も知っています」
「護衛までさせて、身の回りのことまで気にかけて……あれだけ世話を焼いている」
「妹だからだ」
「血の繋がりはありませんよね」
恵美は静かに言った。
「あなたの将来のためにも、結婚は必要では?」
「生憎、世間が何と言おうが興味はない」
恵美は返す言葉を失った。
透也はそれ以上何も言わず、踵を返した。
そのまま庭を抜けていく。
恵美は、遠ざかる背中を黙って見つめていた。
透也は車の運転席に乗り込むと、ネクタイの結び目に指を入れ、緩めた。
「……紗奈」
気づけば、その名前を口にしていた。
(お前は今、何を考えている)




