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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
8 Hollow Anchor 空虚な碇

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55ー廃棄物①

 その自覚は、紗奈の精神を内側からゆっくりと侵食していた。

マンションの暗い部屋で、紗奈は鏡の前に立ち尽くしている。

薫が置いていった紅茶はすでに冷めていた。

整えられた寝具も、静かな空気も、すべてがどこか現実ではないもののように見える。

ただ一つだけ確かなものがある。

鏡の中の自分だ。

紗奈は自分の唇に指先を当てた。

あの夜の、足先まで痺れるような熱。

それを思い出した瞬間、胃の奥がきしむように嫌悪が走る。

(違う)

(あれは、私じゃない)


否定は簡単だった。

だが、身体の記憶だけが裏切るように残っている。


あの男に触れられたとき、反応してしまった自分。

それを「任務」でも「戦闘」でもなく、“女の身体”として処理されてしまった事実。

紗奈は鏡に映る自分を見つめた。

無駄がない身体。

訓練された筋肉。

必要最低限の呼吸。

それはかつて誇りだったはずのものだ。けれど今は違う。

あの場にいた女たちと、何が違うというのだろう。

透也の隣に立つ“装飾”としての女たちと。

紗奈はゆっくりと目を伏せた。

(私も、同じだ)

違うはずだった。守るために存在していたはずだった。

なのに、透也の視線は確かに一度、自分ではない誰かへ向いた。

その事実が、静かに喉を締め上げる。


紗奈は小さく息を吐いた。

「……汚い」

声は驚くほど静かだった。

誰に向けたものでもない。ただ、自分の内部に沈めるための言葉だった。


透也が自分を変えた。

そう思っていた。

だが本当にそうなのか。

あの男に触れられたとき、何も感じなかったわけではない。

拒絶しきれなかったのは、誰のせいでもない。

(……私が)

紗奈の指が、鏡の縁に触れる。


透也は、自分をこんなにも卑しい生き物に変えてしまった。

彼のすべてを、自分と同じ「汚物」の泥沼に引きずり込み、そこで共に腐り果てることこそが唯一の清算ではないか。

(……なら、あの男も私と同じように汚れて私の前で跪くべきだ)

その瞬間、頭の奥で微かな痛みが走った。


――跪く。

意味のないはずの言葉が、妙に耳に残る。

誰に対してのものでもない。

なのに、身体のどこかが反応する。

冷たい記憶の底で、何かが微かに揺れた気がした。

紗奈は眉をひそめる。

(何……これ)

憎い。

透也が。


そう思うべきだ。そうでなければ辻褄が合わない。だがその一方で、別の感情が混ざる。

説明できない違和感。怒りとも違う、焦燥とも違うもの。

紗奈は鏡から目を逸らした。思考を断ち切るように、静かに呼吸を整える。

そして、その場で一度だけ目を閉じた。

――今はいい。


この違和感に名前をつけるのは後でいい。今はただ、確かめることがある。

(跪く、って……)

その言葉だけが、胸の奥に沈んだまま離れなかった。


――跪く。

その言葉が、まだ頭の奥で鳴り続けている。

意味は分からない。けれど、そこに触れた瞬間だけ、身体のどこかがわずかに反応する。

紗奈は息を整えようとして、うまくいかないままベランダへ出た。

外の空気は冷たく、薄い。

まだ夜になりきらない空が、街の輪郭を曖昧に溶かしている。

手すりに指が触れる。

その瞬間、眩暈がした。

「……っ」

頭の奥で、何かが引きちぎられるような痛みが走る。

空気が一瞬だけ遠のく。

次に見えたのは、今の景色ではなかった。


白い光。

室内でも外でもない、中途半端な明るさ。

小さな声。

『ここで待っていなさい』

父の声だ。

紗奈は幼い身体で、その場に立っている。なぜそこにいるのかも分からないまま、ただ言われた通りに。

『どうして?お父様』

見上げる視線の先で、父はしゃがみ込む。

膝を折り、視線の高さを合わせる。その動きが、やけに優しかった。

『君の王子様が迎えに来てくれる』

冗談だった。

ただの言葉遊び。娘を怖がらせないための、軽い嘘。なのに、その言葉だけが妙に残った。


――王子様

意味のないはずの単語が、胸の奥に沈む。

場面が途切れる。

次に浮かぶのは、夜のテラスだった。

風の音。

遠い街の灯り。

まだ世界の輪郭が固まっていない時間。

そこに、誰かが立っている。


青年だ。

隙のないスーツ姿。

ただ、静かな存在感だけを持っている。

そして彼は、迷いなく膝をついた。自分の目線と同じ高さに降りてくる。

それは優しさだったのか、習慣だったのか、それとも単なる合理だったのか分からない。

ただ、その動きだけが異様に鮮明だった。

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