55ー廃棄物①
その自覚は、紗奈の精神を内側からゆっくりと侵食していた。
マンションの暗い部屋で、紗奈は鏡の前に立ち尽くしている。
薫が置いていった紅茶はすでに冷めていた。
整えられた寝具も、静かな空気も、すべてがどこか現実ではないもののように見える。
ただ一つだけ確かなものがある。
鏡の中の自分だ。
紗奈は自分の唇に指先を当てた。
あの夜の、足先まで痺れるような熱。
それを思い出した瞬間、胃の奥がきしむように嫌悪が走る。
(違う)
(あれは、私じゃない)
否定は簡単だった。
だが、身体の記憶だけが裏切るように残っている。
あの男に触れられたとき、反応してしまった自分。
それを「任務」でも「戦闘」でもなく、“女の身体”として処理されてしまった事実。
紗奈は鏡に映る自分を見つめた。
無駄がない身体。
訓練された筋肉。
必要最低限の呼吸。
それはかつて誇りだったはずのものだ。けれど今は違う。
あの場にいた女たちと、何が違うというのだろう。
透也の隣に立つ“装飾”としての女たちと。
紗奈はゆっくりと目を伏せた。
(私も、同じだ)
違うはずだった。守るために存在していたはずだった。
なのに、透也の視線は確かに一度、自分ではない誰かへ向いた。
その事実が、静かに喉を締め上げる。
紗奈は小さく息を吐いた。
「……汚い」
声は驚くほど静かだった。
誰に向けたものでもない。ただ、自分の内部に沈めるための言葉だった。
透也が自分を変えた。
そう思っていた。
だが本当にそうなのか。
あの男に触れられたとき、何も感じなかったわけではない。
拒絶しきれなかったのは、誰のせいでもない。
(……私が)
紗奈の指が、鏡の縁に触れる。
透也は、自分をこんなにも卑しい生き物に変えてしまった。
彼のすべてを、自分と同じ「汚物」の泥沼に引きずり込み、そこで共に腐り果てることこそが唯一の清算ではないか。
(……なら、あの男も私と同じように汚れて私の前で跪くべきだ)
その瞬間、頭の奥で微かな痛みが走った。
――跪く。
意味のないはずの言葉が、妙に耳に残る。
誰に対してのものでもない。
なのに、身体のどこかが反応する。
冷たい記憶の底で、何かが微かに揺れた気がした。
紗奈は眉をひそめる。
(何……これ)
憎い。
透也が。
そう思うべきだ。そうでなければ辻褄が合わない。だがその一方で、別の感情が混ざる。
説明できない違和感。怒りとも違う、焦燥とも違うもの。
紗奈は鏡から目を逸らした。思考を断ち切るように、静かに呼吸を整える。
そして、その場で一度だけ目を閉じた。
――今はいい。
この違和感に名前をつけるのは後でいい。今はただ、確かめることがある。
(跪く、って……)
その言葉だけが、胸の奥に沈んだまま離れなかった。
――跪く。
その言葉が、まだ頭の奥で鳴り続けている。
意味は分からない。けれど、そこに触れた瞬間だけ、身体のどこかがわずかに反応する。
紗奈は息を整えようとして、うまくいかないままベランダへ出た。
外の空気は冷たく、薄い。
まだ夜になりきらない空が、街の輪郭を曖昧に溶かしている。
手すりに指が触れる。
その瞬間、眩暈がした。
「……っ」
頭の奥で、何かが引きちぎられるような痛みが走る。
空気が一瞬だけ遠のく。
次に見えたのは、今の景色ではなかった。
白い光。
室内でも外でもない、中途半端な明るさ。
小さな声。
『ここで待っていなさい』
父の声だ。
紗奈は幼い身体で、その場に立っている。なぜそこにいるのかも分からないまま、ただ言われた通りに。
『どうして?お父様』
見上げる視線の先で、父はしゃがみ込む。
膝を折り、視線の高さを合わせる。その動きが、やけに優しかった。
『君の王子様が迎えに来てくれる』
冗談だった。
ただの言葉遊び。娘を怖がらせないための、軽い嘘。なのに、その言葉だけが妙に残った。
――王子様
意味のないはずの単語が、胸の奥に沈む。
場面が途切れる。
次に浮かぶのは、夜のテラスだった。
風の音。
遠い街の灯り。
まだ世界の輪郭が固まっていない時間。
そこに、誰かが立っている。
青年だ。
隙のないスーツ姿。
ただ、静かな存在感だけを持っている。
そして彼は、迷いなく膝をついた。自分の目線と同じ高さに降りてくる。
それは優しさだったのか、習慣だったのか、それとも単なる合理だったのか分からない。
ただ、その動きだけが異様に鮮明だった。




