54―崩落
透也が恐れた通り、紗奈は透也に拒否反応を示した。
彼の淡い期待は無残にも霧散した。
目を覚ました紗奈に透也が手を伸ばそうとした時、紗奈は薫の後ろに逃げた。
「……こわい」
紗奈は震えながら薫の白衣を掴む。
薫は安堵したように息を吐いた。
「大丈夫。ここは安全だ」
紗奈は小さく頷く。
だが。
薫が目を離した瞬間。
シーツの中で握られた指先だけが静かに動いた。
何かを数えるように。
あるいは。
何かを待つように。
自分を求めるのではなく、他人の温もりを渇望し、自分を「怖い」と告げる声。
その事実が、彼の胸を鈍器で殴られるようにかき乱す。
(俺が、壊した……)
透也の指先は、まだ紗奈の肌の感触を覚えていた。先ほどまで自分が貪り、汚し、支配しようとした彼女が、今は自分以外の男を救いとして求めている。
その事実に、胸が焼け付くような嫉妬と、それ以上に深い絶望が去来する。
彼の手は、まだあの”白いセラミックナイフ”を握りしめていた。
彼女の精神を繋ぎ止めていたアンカー。それを奪ったのは自分だ。
彼女の盾を砕き、彼女をただの震える少女にまで貶めたのも、すべて自分だ。
「……紗奈」
透也は、一歩だけ踏み出そうとして、止まった。 今、彼が近づけば彼女は壊れる。
今の彼女にとって、自分という存在は、彼女の魂を喰らい尽くす死神でしかない。
透也は医務室を後にした。
透也は、暗い廊下の隅でかつてない孤独に突き落とされた。
一方、S/F社本社の冷え切った社長室では、和馬が勝利を確信したような笑みを浮かべていた。
「そうか。あの娘がやっと出て行ったか」
和馬の握りしめられた手は、歓喜で震えていた。
息子の透也が何よりも執着し、精神の核としてきた「所有物」の崩壊。
紗奈が監査で自らの喉に刃を向けた時点で、彼女のTSOでのキャリアは終わるはずだった。
それがレイモンドの描いた終着点だった。
レイモンドは和馬の協力者だった。だが、二人を引き離すためでも城瀬家のためでない。
紗奈のためだ。
だが、一つだけ誤算があった。
紗奈の拠り所のナイフを透也が取り上げたことで、シナリオが狂った。
自殺願望を抱えた護衛員を現場に立たせる組織など存在しない。
彼女はTSOから外され、紗奈は自分の足で生きていく道を考え始める。
そして透也との共依存も、そこで断ち切られる。
そのはずだった。
だが、城瀬透也は護衛員としてではなく、一人の少女として紗奈を扱ってしまった。
医療室の扉越しに、薫の穏やかでありながらどこか決意を秘めた声が透也の背中に突き刺さる。
「透也、紗奈は僕が当分預かるよ。心配しないで」
その言葉は、慈悲深い医者としての提案であると同時に、透也に対する「お前にはもう、彼女を扱う資格がない」という静かな告発だった。
(……笑わせるな)
透也の喉元で、苦い嘲笑がこぼれそうになる。
自分という地獄から引き剥がし、消毒された安全な世界へ連れ出せば、紗奈は本当に治るのか?
彼女の中に刻まれた、自分の手で世界を終わらせたかったというあの狂気まで、薫の「治療」で消し去れるのか?
だが、透也は反論しなかった。
今の彼は、紗奈の視界に入るだけで彼女を過呼吸に陥らせる「汚染源」だ。
これ以上近づけば、彼女を完全に壊してしまう――その事実だけが、透也の手からすべての手段を奪っていた。
「……ああ」
短く吐き捨てた返事は、掠れ、ひどく老け込んでいた。
透也は扉から手を離し、背筋を伸ばすこともなく、重い足取りで廊下を歩き出す。
薫は、扉の隙間から去っていく透也の背中を見た。
その背中があまりにも孤独で、そして「所有権を奪われた捕食者」の無力に満ちていることに、一瞬だけ同情に近い感情を覚える。
だが、彼はすぐに紗奈の顔へと視線を戻した。
ベッドの上で、紗奈は怯えた小動物のようにシーツの中に身を沈めている。
薫は彼女の隣に座り、透也とは対極にある、温かく穏やかな手つきで彼女の髪を撫でた。
「大丈夫だよ、紗奈。もう、誰も君を傷つけない」
その言葉に、紗奈は少しだけ表情を緩め、薫の指先に縋り付いた。
透也は廊下の曲がり角で足を止め、そのやり取りを脳内で想像する。
かつて自分が特権的に占有していた、彼女の脆い心を癒す権利。
それを今、薫という穏やかな光が奪い取ろうとしている。
透也はポケットの中のナイフを強く握りしめた。その鋭利な刃が指に食い込み、血が滲む。
自分が彼女を壊した報いは、彼女を失うことなのか。
それとも、彼女が「普通の少女」として他の男の隣で微笑むのを見届け、その度に内側から腐り落ちることなのか。




