53―不可逆
「……何をしている」
氷床の底から響くような冷徹な声が、回廊の空気を完全に凍らせた。
驚きに目を見開く薫の腕から、紗奈の華奢な身体が、抗う間もなく強固な力で毟り取られる。
「透也……っ、」
薫が息を呑む。だが、透也は薫に一瞥すら与えなかった。
紗奈の細い手首を、骨が軋むほどの圧倒的な力で掴むと、透也は無言のまま彼女を引きずり、プライベート・エレベーターへと押し込んだ。
上昇する密室の中、透也は一言も発しない。ただ、ポケットの中の白いナイフを握りしめる彼の手から、隠しきれない獰猛な殺気が、静かに、けれど狂おしく立ち上っていた。
――三十七階、チーフ室。
喧騒から完全に隔離されたその「城」の重厚なドアが開くと同時に、紗奈の身体は室内の壁へと乱暴に押し付けられた。
「……っ、」
背中に走る鈍い衝撃。
閉まるドアの音と重なるようにして、紗奈の視界は、怒りと独占欲に黒く濁った透也の瞳で遮られた。
「公私の区別をつけろと、そう言ったはずだ」
低い、地を這うような声音。けれどその奥にあるのは、冷徹なチーフの仮面ではなく、己の所有物を他の男に侵されかけた、一人の男の剥き出しの狂気だった。
「一体何の真似だ……!お前は誰でもよかったんだろう」
「あ……透也、ちが、私は……、」
言いかけた紗奈の形の良い唇は、次の瞬間、強引に塞がれた。
──息が、止まる。
それは、パニックをなだめるための事務的な救済などではなかった。
紗奈の顎を強い指先で固定し、逃げることを許さないまま、深いところまで強欲に侵食していく──圧倒的な、熱を帯びたキスだった。
「ん……っ、ふ、……ぅ」
あまりの強烈な質量に、紗奈の脳内は一瞬で真っ白に染め上げられた。
太もものホルスターに残されていた冷たい虚無が、彼の唇から注ぎ込まれる暴力的なまでの独占欲によって、瞬く間に熱く、ドロドロとした至福で満たされていく。
お前を生かすのも、壊すのも、お前の精神の錨を握るのも、世界で俺ただ一人だという、残虐なまでの書き換え。
透也の舌先が深く絡みつくたび、紗奈は溺れる人間みたいに目を細め、彼の完璧な高級スーツの胸元を、細い指先でぎゅっと、壊れそうなほどに掴み返した。
かつて二十二歳の透也が、十二歳の彼女の細い首筋に刻みつけた『俺のためだけに呼吸をしろ』という狂気の呪いが、今、より深く、より逃れられない絶対の烙印となって、彼女の魂へと焼き付けられていく。
過呼吸がひき、透也を見上げる紗奈の正気を取り戻した瞳は、少しずつ十八歳の怯えた少女になった。
その時、透也が自分が何をしたか突きつけられた。
「……紗奈、すまない」
そう言って、紗奈の身体を優しく抱きしめる
「違うんだ、ごめん」
紗奈は透也の腕の中、身体を硬くしたままだった。
「紗奈……?」
ふと紗奈の全身から力が抜ける。
オーバーヒートした紗奈は気を失っていた。
透也はもう一度強く抱きしめた。
次、紗奈が目を開けた時どうなるのか恐ろしくて。
静寂に包まれたチーフ室には、荒い呼吸音さえ聞こえない。
「……紗奈?」
透也の指が、彼女の冷え切った頬をなぞる。
先ほどまで、あんなにも激しく自分を求めていた瞳。
あの瞳の奥にあったのは、狂気か、それとも極限の恐怖だったのか。
「ごめん」という言葉が、自身の喉を重く通り過ぎる。
支配欲に溺れ、獣のように彼女を蹂躙したその手は、今、触れることさえ躊躇われるほどに震えていた。
(何をしている……俺は、紗奈に何を求めている)
彼女は、ただ守られるべき少女だったはずだ。
俺がその盾を奪い、俺がその瞳を狂わせ、俺がその心を壊した。
透也は紗奈の身体を、痛いほどの力で抱きしめる。かつてないほどの恐怖が、氷の塊となって彼の胸中に落ちた。
次、彼女が目を開けた時。
そこに映るのは、自分を渇望する女の瞳か。それとも、すべてを拒絶し、永遠に心を閉ざしてしまった「空っぽの道具」か。
もし彼女が、俺を、この腕を、拒絶したら。
透也は紗奈の耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえない声で呟く。
「……俺を憎んでもいい。殺そうとしてもいい。だが、俺以外の人間を求めて、俺の腕から逃げようとすることだけは……二度と許さない」
その囁きは、愛情という名の呪縛か、あるいは自分自身に対する言い訳か。
透也は、眠り続ける彼女の髪をそっと撫でながら、彼女が目覚めた瞬間に訪れるであろう「審判」を待つ。
冷たい夜の空気が、白いシャツを着た紗奈の白い肌を冷やしていく。
透也は紗奈を両腕で抱きかかえ、医療室の個室のベッドに寝かせた。
「透也、お前……」
「薫。紗奈のこと頼む」
透也はそれだけ言うと、部屋を出ていった。さっきまでの威勢は消え、後悔に苛まれた透也の顔に薫は何も言葉をかけることができなかった。




