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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
8 Hollow Anchor 空虚な碇

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53/64

52―維持装置

  一滴の血も流れなかったことで、周囲の人間には、そのナイフが「本物」なのか。

あるいは「監査をクリアするための迫真の模造品(ギミック)」なのか、誰にも判別がつかなかった。

ただ、紗奈の姿に、和馬の仕込んだ襲撃役の男が、プロの社員でありながら本気で顔を青ざめさせて立ち尽くしている。


透也は、首筋に押し当てられていた偽物の刃を気にも留めず、ゆっくりと歩み寄る。

そして、床に転がった白いナイフを無造作に拾い上げた。

冷たい本物の感触が、透也の掌に伝わる。

(……相変わらず、どこまでもいかれた物を隠し持っている)


透也はそれを周囲に見せつけることなく、当然の所有権を行使するようにジャケットのポケットへと滑り込ませた。

それが誰の計算にも入っていない「本物の殺意」だと知っているのは、今、この世界で透也と紗奈の二人だけだった。

透也は、床に組み伏せられたままピクリとも動かない紗奈の、その深く絶望に染まった横顔を、冷徹な支配者の瞳で見下ろした。


「水分補給が終わったら、全員上のブリーフィング室に来るように」

それだけを淡々と告げると、透也は踵を返してエリアを去っていった。

残された洸樹は、「今の紗奈の暴走は、どこまでが演技で、どこからが本気だったんだ……?」という割り切れない恐怖。

そして、透也の一言で完璧に無力化された彼女への絶望感に、拳を握りしめて立ち尽くすことしかできない。


誰も立ち入れない二人の深淵を、梶の重苦しい沈黙だけが、静かに見守っていた──。


梶の拘束から解かれ、無機質な更衣室で一人、白シャツのボタンを留め、ネクタイを締め直した紗奈は、完璧な「従者」の姿で三十六階のブリーフィング室へと続くプライベート・エレベーターに滑り込んだ。


先ほどまで床に額を伏せていた少女と同一人物だとは、誰も気づかないほどの冷徹な鉄の仮面。

だが。その白シャツの下、左の内太もものホルスターは、いま、最悪の虚無に冷え切っている。


──チーン、と静かな電子音と共に、重厚な扉が閉まる。

完全に外部の音から隔離された、わずか数十秒の、透也と二人きりの密室。

その瞬間、紗奈の鉄の仮面が、音を立てて内側から崩壊した。


「……お願い、透也。ナイフを返して」

彼女は吸い寄せられるように透也の背中に歩み寄り、タキシードから着替えた透也のスーツの裾を、震える指先で小さく掴んだ。  

張り詰めた声。

周囲の耳がある場所では絶対に口にしない、彼の本名。

喉元を焦がすようなパニックの残滓と、唯一の依存先を奪われた飢餓感が、彼女の形の良い唇から灰色の本音を絞り出させる。

前を見据えたまま、透也は動かない。

ポケットの中には、先ほど没収したばかりの、冷たい白いセラミックナイフ。

周囲の誰もが「監査用のダミー」だと思い込んでいる、二人だけの秘密の実弾。


「あれがないと……私、私、壊れてしまう。お願い、返して、透也……っ!」

縋り付く彼女の細い指先を、透也は振り返ることもせず、ただ冷徹な一瞥だけで撥ね退けた。

「……公私の区別をつけろ、紗奈」

低く、地を這うような透也の声が、狭い密室に響く。

「さっきお前が放ったものが、何であったか。忘れたわけではあるまい」

「それは……」


「あれはただの監査だった。だがお前は、本物を抜いた。俺の目の前で、俺を人質に取った男の眉間を、躊躇なく撃ち抜こうとした」

透也はゆっくりと振り返り、ポケットの中からナイフの柄をわずかに覗かせた。

鈍いセラミックの白が、エレベーターの照明を冷たく反射する。

「お前は俺を護ろうとしたのではない。あの男を殺し、その刃を自分の喉に突きつけ──俺の目の前で、俺を道連れにしようとした」

「違うか」

「あ……」

見透かされる。すべてを。

紗奈の大きな瞳が、恐怖と至福の混ざり合った色に微かに歪む。

「あれはお前の拠り所ではない。俺を脅かす爆弾だ。……お前が、俺の『完璧な盾』に戻るまで、これは俺が預かる」


透也は、没収したナイフをジャケットのポケットへと滑り込ませると、一度も振り返ることなく、冷徹な足取りで回廊の奥へと去っていった。


──公私の区別をつけろ、紗奈。

残されたのは、絶対的な拒絶の残響と、左の内太ももに取り残された冷たい虚無。  

いつもならパニックをなだめてくれるはずの『ナイフ』はもうない。

脳内の防壁がガラガラと音を立てて崩れ、冷たい泥流のような狂気が紗奈の精神を埋め尽くしていく。

呼吸が浅く、速くなり、視界の端がチカチカと白く明滅し始めた。


(壊れる……。今、ここで、私、壊れてしまう……っ)


限界だった。

一刻も早く、あの深い「精神安定の領域」へ逃げ込まなければ、自我が粉々に砕け散ってしまう。

彼女にとって、それはナイフを握るか──あるいは、唇を重ねて世界をシャットダウンさせるか、その二つしかなかった。


「紗奈! 大丈夫か!?」

その最悪のタイミングで、静寂の回廊に駆け込んできたのは薫だった。

完璧な監査の連携が崩れ、めちゃくちゃになった現場。

ただ一人、紗奈の精神的な危うさを察知し、なりふり構わず心配そうに駆け寄ってきた男。

だが、今の紗奈の瞳には、それが「薫」という個人の男としては映っていなかった。


もう、誰でもよかった。

この喉を焼くような飢餓感を止め、壊れそうな脳を強制停止させてくれるトリガーを引けるなら、本当に、誰の体温でもよかった。

「あ……」

紗奈は、心配そうに自分の肩を掴む薫の腕を、拒むどころか力任せに引き寄せた。

華奢な身体が、吸い寄せられるように薫の胸へと倒れ込む。

驚きに目を見開く薫の視界、その至近距離に、狂気と熱に浮かされた紗奈の、形の良い唇が迫った。

瞳は完全に焦点を失っている。

恋愛感情でも、誘惑でもない。


ただ息を吸うように、生き延びるためのシステムとして、紗奈は薫の唇に、自分の唇を触れさせようと──

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