51―内部監査
――S/F社自社ビル、上層階の特設レセプションホール。
天井のクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、最高級のジャズが流れる中、ドレスとタキシードに身を包んだ紳士淑女たちが、グラスを片手に談笑に興じている。
一見すれば、政財界のVIPを集めた華やかな社交パーティ。
だが、その実態は酷く歪なものだった。
──出席している客は全員、社長である城瀬和馬が仕込んだ自社の社員。
護衛対象は透也だった。透也はタキシードを着ている。
後ろに立つ隙のないスーツ姿の紗奈は、静かに神経を張り巡らせていた。
これは、TSOの能力を文字通り「根こそぎ剥ぎ取る」ために用意された、巨大な隠密監査の実験場だった。
「こちらノース。サウス側、机の下の不審物チェック完了。クリアです」
「こちらイースト。……不穏な動きをする個体、一体発見。バックヤードへ誘導します」
インカムから流れる澪や洸樹の冷静な声。
最初は、すべてが順調だった。いや、順調すぎるほどに彼らの連携は冴え渡っていた。
紛れ込んだ襲撃役の人間を、一般客(社員)に一切の動揺も与えないまま、流れるような所作で死角へと誘導し、音もなく制圧・排除していく。
これこそがTSOのプライドだった。
監査は最終局面に向かっていた。
──バックヤードへ続く静寂の回廊を澪を先導に透也と紗奈と続いて歩いている。
その時、横の廊下から出てきた男に透也は拘束された。
狭い廊下と死角だったことで、紗奈は咄嗟に出遅れた。
透也は冷静だった。
「動くな。声を上げれば、この喉笛を掻き切る」
襲撃者が凄む。
首筋に小型ナイフが押し当てられる。
その瞬間、チーフの喉元に煌めく金属の刃を見た紗奈の脳裏に、十一歳のあの冬の夜が強烈にフラッシュバックした。
透也の脳裏には、傲慢に歪んだ城瀬和馬の顔がよぎる。
父親は、紗奈がナイフという存在に対してどれほど異常な地雷を抱えているかを知っていて、あえてこの最悪のシチュエーションを最後の引き金に選んだのだ。
「──っ、……ぅ、」
視界が歪む。世界からすべての音が消え去り、耳元で自分の激しい鼓動だけが鳴り響く。
酸素が上手く吸えない。
呼吸が急速に短くなり、指先ががたがたと小刻みに震えだした。
身体が金縛りにあったように動かなくなり、紗奈はその場に無様にしゃがみ込んでしまう。
(嘘だろ……紗奈が……!?)
完璧だったはずの「盾」の完全な機能停止。
この監査は失敗に終わる──最悪の予感が、その場にいる全員の背筋を襲った。
「落ち着け、これは訓練だ……! 紗奈!!」
すぐ横にいた洸樹が慌てて駆け寄り、彼女の耳元で必死に声をかける。
その大きな手が、パニックを起こした紗奈の肩を抱き寄せようとした。
だが、届かなかった。
(許さない)
激しい恐怖の波の底から、どす黒い感情がせり上がる。
透也を脅かす存在を、絶対に、生かしてはおかない。
紗奈はこの男の後ろにいる和馬の影を見ていた。
過呼吸に震えていた紗奈の瞳に、一瞬で底無しの「明確な殺意」が宿る。
彼女は黒パンツの上から左太もものホルスターのロックを外す、ナイフはそのまま紗奈の足首に落ちる。と同時に白いナイフを手にしていた。
「紗奈、待てっ……!」
静止しようとする洸樹の手を、紗奈はまるで生き物のような滑らかさですり抜けた。
狙いは、透也の喉元に刃を向けている男の眉間。
冷静な制圧などではない。
ただ相手を確実に「殲滅」するため、手首のスナップ一閃。
白い実弾が解き放たれようとした、その瞬間──
「──動くな、紗奈!!」
凄まじい衝撃と共に、紗奈の華奢な身体が床へと叩きつけられた。
背後から襲いかかった梶の重厚な肉体が、彼女の右腕を完璧にロックし、床に組み伏せる。
「放して……ッ! 梶さん、放してください!! あの男を殺す……ッ!!」
床に組み敷かれながら、紗奈は獣のような声を上げて暴れる。
梶の拘束によって標的への道を断たれる。
透也はまだ拘束されている。
男の手には刃がある。
(だめ)
(届かない)
(護れない)
その事実だけが紗奈の思考を焼いた。
世界が静かになる。
──カチ、と。
冷たい音が鳴る。
紗奈は組み敷かれながら、右手の中のナイフを、反射的に自分の喉元へと突きつけたのだ。
「なっ──!?」
洸樹が息を呑み、梶の身体が強張る。
主を護れないなら、自分に生きている価値などない。
剥き出しの心中志願。
白い刃が、彼女の薄い皮膚をかすかに押し込む。
その絶対的な死線で。
「──紗奈、やめるんだ」
低く、一切の揺らぎを排した声が、回廊に静かに響き渡った。
透也の命令。
「……っ、」
その声が鼓膜に届いた瞬間、紗奈の全身から、あれほど猛り狂っていた殺気と力が嘘のように霧散した。
突き立てられる寸前だった白いナイフが、床へとしなやかにこぼれ落ち、虚しい軽い音を立てて転がる。過呼吸に震えていた瞳からすうっと狂気が引き、凶暴な獣が、唯一従う声によって鎮圧された。
紗奈は、床に額を伏せてじっと動かなくなった。
刃は、彼女の白い肌を一枚も割ることはなかった。




