50―帰着
薫は透也を呑みに誘った。
透也がよく行くホテルの、かしこまったバーではない。
若いカップルがデートに使うような、カジュアルだが落ち着いた店だった。
スタンディングの小さなテーブルを挟み、二人は酒を飲んでいた。
「珍しいな。お前から誘うなんて」
「……透也。紗奈に手を出しただろ」
透也のグラスを持つ手が止まった。
「何のことだ」
透也は何事もなかったようにグラスを傾ける。
氷が、からりと鳴った。
「手を出すなとは言わない。だが、曖昧なことはやめるんだ。彼女が混乱する」
「見合いの席に同席させるなんて以ての外だ。何を考えている」
透也は黙った。
満杯の薫のグラスから、結露した雫が一つ落ちる。
「紗奈はもう子どもじゃない。本当に君と刺し違えるぞ」
透也は空になったグラスを置いた。
薫は続ける。
「紗奈の気持ちも考えろよ。自分の独占欲を満たすために利用するな」
「独占欲か……」
透也は低く呟いた。
「確かに、他の男が紗奈に触れるのは不愉快だ。だが、それが何だ。紗奈は俺のものだ」
「違う」
テーブルに置かれた透也の手が、ぴくりと動いた。
「紗奈は次の居場所を探している」
透也の眉がわずかに動く。
薫はグラスを持ち上げた。
「君は、本当に気付いていないのか」
「……何にだ」
「あの子は最近ずっと確認してる」
透也は黙って薫を見る。
「君から離れる話をした」
「卒業したら城瀬家から出ると」
「僕に主になれないかとも聞いた」
そこで初めて、透也の視線が止まった。
薫は静かに続ける。
「全部同じ意味だよ」
沈黙。
「だが、俺がいなくてどうやって紗奈が発作に対処する?俺以外無理だ」
「君が、そう仕向けたんだろ」
「だが紗奈だって、自分で対処できない訳じゃない」
「そうか?診察室で発作を起こし、お前を押し倒していた紗奈を止めたのも俺だ」
あの時、診察中に発作を起こした紗奈の首を絞め、透也は紗奈を正気に戻した。
「君がこなければ、ゆっくり落ち着かせていた」
「その間に何が起こっていただろうな」
「紗奈がお前に迫っている姿なんて見たくもない」
透也は苦々しく言う。
だが、薫は冷静だった。
「君が心配しているのは発作じゃないだろ」
「発作だ」
「違う。君は、紗奈が自分のいないところで誰かを頼ることが怖いんだ」
「……くだらない」
透也は酒をあおった。
店内の雑音だけが、二人の間を流れていく。
薫が意を決したように言う。
「君が結婚すると思ってるんだよ」
透也の表情から、感情が消えた。
「だから次を探してる」
「君がいなくなった後の、生きる場所を」
「そんな必要はない」
即座に返した透也に、薫も間を置かずに返す。
「君がそう言ったのか?」
透也は答えない。
「結婚しないと」
「離れないと」
「ずっと傍にいると」
薫は一つずつ言葉を置く。
「言ったのか?一度でも」
透也の指がわずかに動いた。
「言わないくせに、他へ行くなとも言う」
薫は静かに息を吐いた。
「君がしていることは、一番残酷だよ」
透也は何も言わなかった。
グラスの中で氷が溶けていく。
薫も、それ以上は追及しなかった。
けれど、透也の沈黙は否定ではない。
(言えるわけがない)
透也は視線を落とした。
(言葉にしたら、それこそ全部終わる)
紗奈はまだ十八歳だ。
自分は城瀬家の後継者で、TSOを統括するチーフ。
いずれはS/F社を継ぐ身でもある。
そして何より、自分は紗奈を闇から引き上げた人間だ。
彼女にとって、自分はただの恋人にはなれない。
守る側であり、帰る場所であり、これまでの人生そのものだ。
そんな自分が、
『ずっと傍にいろ』
『誰にも渡さない』
『お前以外と結婚する気はない』
そんな言葉を口にしたら。
それは愛の告白ではなく、紗奈の人生を自分のものにするための命令になってしまう。
だから言えない。
言ってはいけない。
そう思ってきた。
紗奈が自分を選ぶことと、自分が紗奈に選ばせることは違う。
だから、彼女が自分の意志でここにいる限りは、それでいいと思っていた。
だが。
薫の言葉が、頭から離れない。
『言わないくせに、他へ行くなとも言う』
透也は目を伏せた。
自分は、何も強制していない。
ただ、紗奈が自分のそばにいることを当然のように受け入れていただけだ。
それが彼女にとって、どんな意味を持っていたのか。
そこまでは、考えたことがなかった。
そして紗奈が今、誰かのところへ行こうとしているのではなく、
自分がいなくなった後にも生きていける場所を探しているのだとしたら。
「……紗奈」
誰にも聞こえないほど小さな声が、唇から漏れた。




