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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
1 First Cage 最初の檻

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5/20

4―繰り返される揺らぎ

 帰路に着くため黒いセダンの後部座席に二人は身を沈める。隣に座る透也は、タブレット端末で夜間の情勢をチェックしている。その横顔はどこまでも理知的で冷徹だ。しかし、紗奈の視界は、ふとした拍子に「あの日の色」に染まり始める。

ふと窓の外を流れる赤いネオンの光が、彼女の網膜に焼き付いた。


 五年前――十二歳の冬。 温かな家庭の匂いは、一瞬にして鉄錆のような血の匂いへと塗り替えられた。

悲鳴さえ上げる間もなく振り下ろされた、鋭利な刃物の光。崩れ落ちる両親の背中。白い絨毯に、ゆっくりと、けれど確実に広がっていくどす黒い赤。助けを求めて伸ばした自分の小さな手が、熱を失いゆく肌に触れたときの、あの絶望的な冷たさ。

(……また、これだ)


紗奈の指先が、膝の上でかすかに震えた。

黒いスーツの袖を強く握りしめる。

防弾チョッキを着込み、ポニーテールをきつく結び上げ、どれほど「強さ」を纏っても、内側に潜む十二歳の少女は、今もあの惨劇の夜から逃げ出せずにいる。

呼吸が浅くなり、視界の端が白く爆ぜる。

その時、震える彼女の手の上に、冷たくも確かな重みが重なった。透也が、視線は端末に向けたまま、空いた手で彼女の手を静かに、力強く包み込んだのだ。


「……紗奈、呼吸を整えろ」

彼の低く、感情を排した声。

それが、過去の深淵へと引きずり込まれそうになっていた彼女の意識を、現在いまへと繋ぎ止めるアンカーになる。

「……ごめんなさい。透也」

彼女は掠れた声で呟き、強張っていた肩の力を抜いた。


 黒いセダンは、都心の最高級住宅街の奥に佇む、高いコンクリートの壁に囲まれた城瀬の私邸へと滑り込んだ。 自動で開閉する重厚なアイアンゲートを潜り抜け、車が完全に停止する。


透也は包み込んでいた紗奈の手を静かに離すと、何事もなかったかのようにタブレット端末をブリーフケースに収め、先に車を降りた。

紗奈もまた、乱れた呼吸を完全に隠し、いつもの冷徹なプロの顔に戻ってその後を追う。


 指紋認証と暗証番号を要求するセキュリティを解除し、玄関ホールへ足を踏み入れる。静まり返った広い邸宅。 大理石の床には、二人の足音だけが規則正しく響く。ここは「城瀬家」の家ではあるが、他の家族の気配は一切ない。

透也が父親から与えられ、十二歳の紗奈を引き取ってから、五年間。

この邸宅は、二人だけの隔離空間になっていた。


ダイニングテーブルの上には、深見が手配したホテルのプライベート・ケータリングが、約束通り届けられていた。

銀色のドーム型のクロッシュに覆われたトレイが、静かに二人を待っている。


透也は、ネクタイを外し首元を緩めた。

銀の蓋を開ける。

「やはり、少し冷めているな。……まぁいい。食べなさい、紗奈」

運ばれてから数時間が経過したフランス料理のフルコース。美しく盛り付けられた肉料理や色鮮やかなソースは、ほんの少しだけその瑞々しさを失っている。

紗奈は透也の向かい側に座り、ナイフとフォークを手にした。


紗奈にとって、食事は義務だった。

空腹だから食べるのではない。

ただ、生きるための行為。

食べたくなくても透也が「食べろ」というなら従うだけ。だから、仕事着のまま手をつける。


やっと透也との食事から解放される。

自室に戻ると、紗奈はきつく結びあげていたポニーテールをほどく。艶やかな黒髪が肩へと滑り落ちる。特殊繊維の硬い防弾チョッキを外し、薄手の柔らかなルームウェアに着替えた。


 明日の学校の準備を済ませると、部屋の中にある扉を開ける。

その向こうは、透也の寝室だ。

透也はすでにベッドの上にいて、右側を空けて本を読んでいた。紗奈はいつものように、その空いているスペースへと滑り込むように身体を沈めた。


眠ることも、紗奈にとっては安心できる行為ではなかった。

目を閉じれば、いつあの惨劇のフラッシュバックが起きるかわからない、

恐ろしい時間。

だが、透也の隣でなら、不思議と眠りにつくことができる。


もしまた、あの瞬間に引きずり戻されそうになっても、彼の冷たく確かな重みが、必ず自分を現在いまへと引き戻してくれると知っているから。


本をめくる微かな紙の音だけが、静まり返った寝室に響く。 紗奈は背中に彼の体温を感じながら、ゆっくりと、深い闇の底へと意識を委ねていった。


 ベッドの暗闇の中、ふとした瞬間に、紗奈の身体がピキリと凍りついた。

叫ぶわけでも、涙を流すわけでもない。ただ、瞳から静かに光が消え、呼吸の音が浅く、小さくなっていく。


――十二歳のあの暗闇が、静かに彼女の足元から競り上がってきている。

完全に現実との繋がりを失い、冷たい石のようになってしまった紗奈。 その頬を、透也の大きな手が包み込む。

「行くな、紗奈」

低い声。呼びかけと同時に、彼は静かに唇を重ねた。

触れるだけの、体温の低い、淡い口づけ。

けれど、凍りついていた紗奈の世界に、その冷たい感触だけが確かな「境界線」として刻まれる。

(あ……戻ってきた。ここは、城瀬の家だ。透也の腕の中だ……)


じんわりと指先に感覚が戻り、瞳に光が灯る。 激しい熱などいらない。

あの日、十二歳の自分を救ってくれたのと同じ、この「変わらない冷たさ」だけが、彼女を深い泥の底から引き上げる唯一のアンカーだった。


透也の腕が、そっと彼女の身体を引き寄せる。

紗奈は彼の胸元に額を預け、冷たい体温の残るその檻の奥で、今度こそ静かな眠りの中へと沈んでいった。


(第1幕── 完)


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