5 ─ TSO専属医療室
「発作の間隔が短くなっている」
透也は、ジャケットを腕にかけスリーピースのベスト姿で診察デスクに腰掛けていた。そのデスクの主たる椅子には、企業医師であり精神科医でもある上澤薫が座っている。 透也の同級生でもあり、よく似た背丈の男だが、まとう雰囲気は真逆だった。透也が命令を下す冷酷な支配者なら、薫は相手を自分の管理下で優しく守る庇護者だ。
ここはS/F社の、SF(Security Force)だけが立ち入りを許された特殊区画。ベッドを設えた鍵付きの個室も完備されている。外傷もメンタルケアも、この部隊にとっては日常の一部に過ぎない。
名前を言わなくても、誰のことを指しているかは明白だった。
「何か心当たりはあるのか?」
薫が手にタブレットのタッチペンを持ちながら聞く。カルテを見つめるその眼差しには、静かな包容力があった。薫は、紗奈の主治医だ。
「…………」
心当たりなど、挙げればきりがない。返答がないこと自体が、もはや答えているようなものだった。
ついにこの男の理性のタガが外れたか、と薫は冷ややかな目で透也を見た。
「……とりあえず、出社したら僕のところへ来るように伝えておいて」
いつものように学校を終え、黒塗りのセダンに乗り込み、髪を束ねようとした時だった。
「医療室に顔を出すようにとのことです」
運転手の言葉に、紗奈は髪を束ねる手をぴたりと止めた。そして、脱力したようにシートに身体を沈める。
昨日と変わらない威圧感のある高層ビルの地下へ、車が滑り込んでいく。紗奈は制服のまま車から降りると、三十五階にあるフロストガラスの自動ドアの向こう──TSO専属医療室に足を踏み入れた。明るく、清潔感のある白い空間に、紗奈は眩しそうに目を細めた。
「紗奈、今日は着替えてないんだね」
コーヒーカップを片手に診察室から出てきた薫が、髪も下ろしたままの制服姿の紗奈を見て言う。
「どうせ、すぐには終わらないもの」
その返答に、薫はわずかに苦笑した。紗奈とは彼女が十一歳の頃からの付き合いだが、治る気のない患者ほど骨の折れるものはない。
ソファに座るように促し、薫は紗奈の横に、少し距離を置いて座った。
「透也が心配していたよ」
その瞬間、紗奈の睫毛が小さく揺れた。ドクン、と鼓動が跳ねる。 透也の思考の中に、自分が存在しているという事実だけで、胸の奥が熱を持つ。そんな彼女を、薫は冷静に観察すると同時に、心のどこかで安堵していた。
(良かった……。まだ透也の理性は焼き切れてなさそうだ)
十七歳の彼女が抱えるには、あまりにも重すぎる執着。そして透也もまた、その愛に呑み込まれたのか、あるいは意図して呑ませたのか。
医学生だったあの頃、未熟な自分のせいで、この少女の心を救い上げることができなかったという深い悔恨。今や自ら透也の盾になることを渇望し、死に場所を探しているような危うい少女。
「先生は、魂が引き裂かれる感覚を味わったことはある?」
紗奈は虚ろな目で、ぽつりと呟いた。
「私は毎日、その痛みに耐えてる。透也は私に『行くな』と言うの。私は──ここにいたくないのにっ!」
最後の言葉は、声にならない叫びに近かった。一瞬にして紗奈の呼吸が浅くなる。
「落ち着いて」
静かにトーンを落とした声で、薫が手を伸ばす。 確かに悪化している……。最近は比較的、落ち着いていたというのに。
だが次の瞬間、紗奈は薫の身体をソファに押し倒し、馬乗りになってその動きを封じた。 彼女が本気になれば、敵を制圧するプロの手順を熟知している紗奈に、戦闘訓練を受けていない薫が勝てるわけがなかった。
涙で潤んではいたが、その狂気を孕んだ瞳に呑まれそうになる。
「何をしている」
地面を這うような低い声が、頭上から落とされた。 紗奈の身体が、ピタリと動きを止める。瞳にわずかな理性が戻る。
「……あっ……あ」
「私を見ろ、紗奈」
透也は歩み寄ると、彼女の首筋を片手で掴み、強引に自分へと向けさせた。 ぐっと指先に力が込められる。
……息ができない。行き場のない酸素が尽きかける強烈な予感の中で、なぜか、紗奈の唇がふわりと微笑んだように見えた。
「離すんだ、透也!」
薫の鋭い制止に、透也がようやく手の力を抜く。 解放された紗奈の肺が、酸素を求めて激しく咳き込んだ。透也はそんな彼女を、ただ冷酷に見下ろしている。自分以外の男に暴走し、縋りつこうとしたことへの罰だとでも言いたげな、暗い目で。
睡眠薬を飲まされた紗奈は、個室のベッドで静かに眠っていた。規則正しい、小さな呼吸だけが繰り返されている。
個室を出た瞬間、薫は激しい怒りとともに振り返った。
「僕がゆっくり落ち着かせようとしていたのに、君のせいで台無しだ!」
「……確かに荒治療だったが、紗奈に組み敷かれて、お前が本気で動けると思っているのか」
冷淡な言葉に、薫は歯噛みした。確かに、あの状態の紗奈を、力で制圧するのは不可能に近い。
「紗奈は私が救う」
透也はネクタイを緩めることもなく、ベストの皺を軽く手で整えた。
「何が、救うだ。壊しているの間違いだろ! 彼女には別の可能性もあった。君の独占欲に燃やされない、普通の未来が!」
薫は怒りで声を震わせた。だが、透也の表情が動くことはない。
あれでは一言、言葉を発するだけで相手を平伏させる主と、そう躾けられた犬だ。
「……違うな。あの時、私が生き方を教えなければ、あれは死んでいた」




