3―名が縛るもの
トレーニングルームでの激しい運動を終え、シャワーで汗を流した紗奈は、三十五階の同じ階にある社員用休憩室の片隅にいた。
そこは、先ほどまでの三十七階とはまた違った、機能性と清潔感だけを追求した無機質な空間だ。黒いスーツを完璧に着こなし、一人でノートを広げる。
机の上に広げられているのは、明日提出の現代文の課題と、数式の並んだ数学のプリントだ。
「……この問題、回りくどい」
独り言をこぼしながら、彼女はシャープペンシルを走らせる。 数分前までサンドバッグを叩き、模造ナイフを握っていた手で、今は「平和な日常」の象徴である宿題を片付けている。この矛盾こそが、城瀬紗奈という少女の平穏だった。
ふと、休憩室の自動ドアが開く音がした。
顔を上げなくてもわかる。 約束の時間は、一秒の狂いもなく守られた。
「終わったか、紗奈」
入り口に立っていたのは、スリーピースのジャケットを脱ぎ、ベスト姿で腕にコートをかけた透也だった。その姿は、仕事終わりのエリートビジネスマンのようでもあり、獲物を仕留めた後の狩人のようでもある。
「はい」
紗奈はパタンとノートを閉じ、手際よくカバンに詰め込んだ。 宿題という「表の顔」を鞄の奥底にしまい込み、彼女は再びポニーテールを揺らして立ち上がる。
明日になれば、彼女はまた艶やかな黒髪を靡かせ、ベージュの制服を纏って校門を潜る。しかし、今この瞬間の彼女を満たしているのは、スーツの下に潜ませた防弾チョッキの重みと、隣を歩く男の体温だけだった。
地下ロータリーへ向かう静かなエレベーターの中、並んで立つ二人の姿は、傍目にはこれ以上なく似合いの「兄妹」あるいは「若き指導者とその美しき護衛」に見えるだろう。
しかし、その絆の根底にあるのは、血の通った温かな家族愛などではない。
五年前、両親を目の前で殺され、天涯孤独の身となった紗奈。
彼女を拾い上げたのは、大学生の透也だった。
「……十二歳の時のこと、覚えてる?」
エレベーターの鏡に映る自分たちの姿を見つめながら、紗奈がポツリと零した。
「忘れる理由がない」
「私、あの時は何も持ってなかった」
「今は違う」
透也は前を見据えたまま、低く、断定するような声で返した。
透也は視線を逸らさないまま、わずかに間を置いた。
「お前は、俺の側にいる」
それは命令でも肯定でもない。
ただ、そこに置かれた事実だった。
紗奈は自分の手を見つめる。
握るでもなく、開くでもなく。
「……そこにいるのが、一番落ち着く」
それだけを、選ぶように言った。
透也はそれを聞いて、拳を静かに握りしめた。
「城瀬」という姓は、彼女にとって自分を縛る鎖であると同時に、この残酷な世界で戦うための唯一の武器でもある。そして、その武器の所有者であり、自分を「城瀬紗奈」という形に作り変えた主こそが、隣に立つ透也だった。
地下に到着し、扉が開く。 待機していた黒いセダンの前で、運転手が恭しくドアを開けた。




