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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
8 Hollow Anchor 空虚な碇

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49/64

48―境界線

二か月前。

レイモンドとのランチで告げられた言葉どおり、和馬の包囲網は着実に狭まりつつあった。

料亭の廊下には磨かれた木の香りが満ちている。

和馬が用意した縁談。

製薬会社の令嬢。


透也は静かに廊下を進み、その半歩後ろを紗奈が追う。

目的の部屋まであと少し。灯りの届かない曲がり角で、透也は不意に立ち止まった。


「紗奈」

呼ばれた瞬間、手首を掴まれる。

気づいた時には背中が壁についていた。

紗奈は瞬きを一つした。抵抗はしない。

ただ透也を見上げる。透也は何も言わない。

そのまま唇を重ねた。

強引だった。息が詰まるほど近い。

以前のような確認ではない。何かを確かめるような。何かを刻みつけるような口づけだった。


紗奈は目を閉じる。

拒絶も受容もない。ただ嵐が過ぎるのを待つように。

やがて透也は離れた。乱れた呼吸だけが残る。


透也は手首を離すと、何事もなかったかのように身なりを整え、襖(ふすま)に手をかけた。

後ろに控える紗奈の瞳からは、ただの護衛としての静寂だけがある。


「お待たせしました」

透也は襖を開ける。そこには華やかな縁談の席が待っていた。

着物姿の令嬢は美しかった。上品で、教養があり、笑顔も柔らかい。

透也に向ける視線には好意が滲んでいる。

透也もまた完璧だった。城瀬家の後継者として。TSOのチーフとして。

一つの綻びも見せない。

紗奈は部屋の隅に立っていた。ただの護衛として。ただの付添人として。感情を殺し切ったまま。

会話は続く。笑い声も聞こえる。

その時だった。


令嬢が自然な仕草で透也の腕に手を添えた。

それだけだった。それだけなのに。

紗奈の指先がわずかに強張る。胸の奥で何かが軋んだ。

理由は分からない。任務にも関係ない。危険もない。それなのに視線を逸らせなかった。


令嬢の手。

透也の横顔。

笑い声。

耳障りだった。


紗奈は無意識に唇を噛む。

痛みで我に返った。

透也がこちらを見ている。紗奈は何事もなかったように視線を戻した。

それ以降、会が終わるまで一度も顔色を変えなかった。


帰りの車内。透也が紗奈の顎を掴んだ。

「誰の許可で傷を作った」

親指が下唇をなぞる。皮膚がひりつく。

「申し訳ございません。城瀬チーフ」

機械的な謝罪。

透也は小さく舌打ちした。


それ以上は何も言わない。

紗奈も黙っていた。

私邸へ戻ると、紗奈は浴室でシャワーの冷水を浴びる。

熱を消したかった。理由の分からない苛立ちを消したかった。


鏡を見る。

濡れた黒髪。

痩せた身体。傷だらけの身体。

令嬢とは正反対の姿。

比較する意味などない。そう思うのに、視線が離れない。

何が気に入らないのか。何に腹が立っているのか。自分でも分からなかった。

鏡の中の自分がこちらを睨んでいる。

紗奈は拳を握った。


透也が最近、自分に触れる。

キスをする。

抱き寄せる。

そのたびに胸の奥で何かがおかしくなる。それが何なのか。まだ名前を知らなかった。


 紗奈の告白は、洗面所でのあの冷徹な殺意とは裏腹に、驚くほど静かな響きを持っていた。

濡れた髪から滴る水滴が、首筋を伝って胸元へと滑り落ちる。その華奢な肩のライン、か弱くすら見える少女の輪郭。紗奈はそのすべてを「不要な装備」として切り離そうとしていた。


「透也。髪を切りたいの」

書斎のデスクに座る透也を見つめるその瞳には、ただ、戦闘に不必要な重量を削ぎ落としたいという、戦術的な合理性だけがある。

透也はソファに腰掛けたまま、読みかけの資料から目を上げなかった。

コーヒーの湯気が、夕暮れの書斎の中で白く揺らめいている。

しかし、その瞳の奥では、張り詰めた緊張が糸のように震えていた。

「だめだ。私の許可なしに切ることは許さない」

その言葉は義務的で、冷たいほどに無機質だった。

透也にとって、その長く艶やかな黒髪は、彼女を「普通の少女」として認識させるための、唯一の象徴。

もし、この髪を切り落とされたら。

彼女は本当の意味で、自分の手からすり抜けてしまうのではないかという恐怖が、透也の背筋を冷やした。

紗奈は歩み寄り、透也の膝の前に跪いた。

冷たい指先で、透也の膝の上に置かれた資料の端をなぞる。

その所作はあまりにも人形じみていて、かつての紗奈の面影を逆説的に強調していた。

「切っても、私は変わりません」

「変わる」と透也は思った。 髪を切り、鏡の中の自分を「殲滅者」として完成させたとき、彼女はもう、この邸の食卓に座ることを許さないだろう。

自分を「保護者」としてではなく、「処理すべき対象」としてしか見なくなるだろう。


紗奈は溜息を吐いた。

「……レイもだめだって言った」

透也は膝の上の資料を強く握りつぶし、彼女の細い顎を強引に引き上げた。その指先には、彼女の首筋を絞めたいという衝動と、彼女を永遠に抱きしめていたいという矛盾した渇望が混ざり合っている。

「紗奈。これは命令だ。……お前が俺の主である限り」

その言葉は、彼が自分自身に言い聞かせるための呪文だった。

紗奈は透也の視線を受け止めたまま、瞬き一つしなかった。

「わかった。もう言わない……」


長い髪をおろし、白いワンピースを着て床にそのまま座る少女。

その神域だけは奪わせない。

夕闇が迫る私邸の書斎で、紗奈は窓際の床に直接座り込んでいた。


 いつものように学校からオフィスに出勤してきた紗奈は、空っぽのチーフ室の扉を見た。

「チーフは、外出中です。今日はお戻りになるか分かりません」

深見が務めて事務的に言う。

「そうですか」

おそらく、この前の令嬢といるのだろう。そうでなければ、理由を濁す必要性がない。

紗奈は、三十五階にある個室のトレーニング室で白いタクティカルナイフを抜いて振るった。

TSOの制服の黒い革の手袋がナイフの切っ先から紗奈の手を防護している。それを紗奈は脱ぎ捨て、直接掴む。

ひんやりとしたセラミックの感触が心地いい。

――自分にはこれしかない

(透也が結婚したら私はどこへ行こう……)


紗奈は瞼を静かに閉じた。


(今すぐにでも出ていくべきなのかもしれない。そうすれば……)


胸の奥の何かに触れずに済む。

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