47―密約
紗奈は学校の休日に会社に出勤した。透也はもう先に会社に行っていた。
朝からいつものように地下駐車場から車を降り、TSO専用エレベーターに乗ろうとしたところで、和馬の息のかかった社員に捕まった。
案内されたのは、社長室ではなく小さな会議室だった。和馬が上座でガラス窓から見える外の景色を背負いながら座っている。
TSOの制服を着た紗奈は一切の感情を排除して和馬の前に立つ。
座れとも言われず、和馬が話し出す。
「なぜ戻ってきた」
「レイに日本に戻るように言われましたので」
平坦な揺れのない答え。
「息子のもとへか?」
「いいえ、そういう訳ではありません」
紗奈は迎えに来たのは透也の方だとは言わなかった。そんなことを口にすれば、今すぐこの男は自分を排除するかもしれない。
和馬は一度だけ、紗奈の言葉のあとに沈黙を置いた。
「……そうか」
それは納得でも了承でもない。
ただ、予定表に印を付けるような声音だった。
紗奈は視線を落とさない。
逸らす必要がないからだ。
和馬は机の上の資料に軽く視線を落とす。
「城瀬を名乗る以上、外聞は保たれるべきだ」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
だが内容は紗奈だけに向けられている。
「お前は“戻ってきた者”として扱われる」
和馬は一拍だけ紗奈を見た。
「お前は城瀬の人間だ」
それは確認だった。
そして、続ける。
「少なくとも卒業まではな」
わずかな間。
外の光がガラス越しに差し込み、会議室の中だけ温度が違うように見えた。
和馬は資料に視線を落としたまま言う。
「息子の傍にいる以上、お前はただの個人ではない」
その言葉は説明ではない。
分類だった。
「盾として機能しろ」
一度、言い直すように間を置く。
「せいぜい役に立て」
紗奈の表情は変わらない。
だが、その言葉だけが空間に沈む。
和馬はそれ以上の興味を持たないように、視線を切った。
「それ以上の価値は期待していない」
扉が開く寸前、和馬は振り返らずに言った。
「なるべく早く決めろ」
そして付け足すように、淡く。
「お前の場所をな」
扉が閉まる音が響く。
紗奈はそのまま、しばらく動かなかった。
会議室の中には、誰もいない。
ただ“決まったものだけが残っている空間”だった。
紗奈がTSOのガラス扉から姿を現す。
「おはようございます。……事故でもありましたか?」
いつも余裕をもって出勤してくる紗奈の予定が狂っていることに、深見は違和感を覚える。
「おはようございます。はい、渋滞に巻き込まれました」
紗奈は、自分の手が微かに震えていることに気づく。
「このままトレーニングに行っても構いませんか」
「ええ、特にチーフも外出の予定はありませんし問題ないかと」
「ありがとうございます」
紗奈は自分の左内太ももに視線を下ろした。
歩き出そうとして、一瞬だけ足が遅れる。
それは痛みではない。
判断の遅れだった。
(……問題ない)
そう結論づけるまでに、わずかな間があった。
その“間”自体が、以前よりも長いことには気づいていない。
「トレーニングルームは空いています」
背後から深見の声。
紗奈は振り返らない。
「はい」
廊下はいつも通り明るい。
ガラス越しに外の光が流れている。
世界は正常に動いている。
それでも、身体の内側だけがひとつだけ違っていた。
歩幅のわずかなズレ。
呼吸のひとつ前の遅れ。
思考より先に動くはずの身体が、ほんの一瞬だけ“確認”を挟む。
紗奈はそれを異常とは呼ばない。
ただの誤差として処理する。
左内腿のナイフだけが、そこに確かに在るままだった。
触れずにいる限り、それはただの存在でしかない。
(第七幕――完)




