45―隠したもの
透也はレイモンドの番号を叩いた。呼び出し音が一回鳴るか鳴らないかのうちに、男は出た。
「そろそろかかってくる頃だと思っていたよ」
受話器の向こうの声音は、最初から全てを見透かしているように滑らかだった。
透也は怒りを殺し、冷徹に問い詰める。
「あのナイフはなんだ。紗奈が俺を排除しようとした」
「彼女の拠り所だよ」
「こっちは危うく殺されかけたんだぞ」
「よく生きてたな」
笑いを含んだ返答に、透也は喉の奥で舌打ちを噛み殺した。
レイモンドは悪びれる様子もなく、淡々と宣告する。
「安心しろ。任務中は抜かない」
「……まあ。お前が余計なことをしなければだが」
受話器の向こうで、レイモンドが皮肉めいた笑みをこぼす気配がした。
「紗奈の境界は、明日が来ることじゃない。いつでも終わらせることができる、その『瞬間』にあるんだよ」
その言葉が、透也の心臓を冷ややかに刺した。
「それを奪えばどうなるか、わからない訳ではあるまい。……あれがあるから、紗奈はお前がいなくても平気なんだ」
通話が切れた後も、その言葉だけが残った。
あれがあるから、紗奈はお前がいなくても平気なんだ。
透也はしばらく動かなかった。
個室のモニターには、眠る紗奈の姿が映っている。
穏やかな寝顔だった。
少なくとも今は。
「紗奈」
私邸に戻り、自室にいた紗奈を透也が呼ぶ。ベッドの端に腰掛けていた紗奈が顔を上げた。
「今日からお前はここで寝ろ」
透也は自分の寝室の方を指さした。紗奈は不思議そうに瞬きをする。
「透也が寝不足になっちゃうよ」
透也は少しだけ黙った。
先ほどのレイモンドの言葉が頭から離れない。
あれがあるから、お前がいなくても平気なんだ。
そんなはずがない。
そう思うのに、否定しきれない。
「それでもいい」
低く言う。
「また苦しくなったら起こせ」
紗奈が首を傾げる。
「起こしたら困るでしょう?」
透也はわずかに眉を寄せた。
「困らない」
そして少しだけ間を置いて続ける。
「一人で抱えるな」
「……俺がいる」
紗奈はしばらく黙っていた。
やがて小さく頷く。
「分かった」
真夜中の静寂のベッドの中で、透也は紗奈の肩が小さく震えていることに気づいた。
呼吸が乱れている。
発作か。
反射的に透也は身構えた。
――紗奈、泣いているのか
透也は思わずそう口にした。
紗奈自身も気づいていなかったのかもしれない。
頬を伝う雫に触れ、
少しだけ目を見開く。
「……わからない」
小さな声だった。
「苦しいのか」
紗奈は首を振る。
「痛いのか」
また首を振る。
沈黙。
そして、ずいぶん時間をかけてから。
「……寂しかった」
透也は息を止めた。
それは発作ではない。
トラウマでもない。
錯乱でもない。
ただの感情だった。
一年。
レイモンドのもとで生き延びるために、余計なものを削ぎ落としてきた少女がようやく零した、あまりにも普通の言葉だった。




