44―返ってきた日常
その夜。
透也が廊下を通りかかった時、扉の内側から乾いた音がした。
ガラスが割れる音。
一拍遅れて、息が乱れる気配。
「紗奈?」
扉を開ける。
床に散らばる破片。
その中心に、紗奈がいた。
膝をつき、肩が小刻みに揺れている。呼吸が合っていない。それなのに、視線だけが異様に静かだった。
その手に、小さな刃物がある。
日用品の延長のような、細い金属。
だが握り方だけが道具ではなかった。
「何を持っている」
透也が一歩踏み出した、その瞬間。
世界の位置が変わる。
床。
天井。
重さ。
順番が入れ替わっていた。
気づいた時には、透也は床に押さえ込まれていた。
首元に刃。
上にいる紗奈は、こちらを見ていない。
見ているのは「対象」。人ではない。意味を持たないもの。
「……排除」
小さく、音にならない言葉。それだけだった。
透也は息を吐く。
「殺せばいい……」
抵抗しないまま、ゆっくりと身体を起こす。
自分で、刃を喉元へ寄せる。
一筋、血が落ちる。
その瞬間。
紗奈の指先が、ほんのわずか止まる。
「……?」
初めて、“認識の揺れ”が入る。
透也はその隙に、手首を掴んだ。力を抜かない。しかし壊さない強さで、ナイフを落とす。
乾いた音。
セラミック素材のナイフが床に落ちる。その音で、紗奈の目が揺れる。
透也は彼女を押さえ込むのではなく、距離を詰めた。
乱暴ではない圧で、唇を重ねる。抵抗は一瞬だけある。だが、それは“拒絶”ではない。
反射だ。
次の瞬間、紗奈の動きが止まる。
「……透也」
その声は、さっきまでの“排除の声”とは別の層から出ている。
透也は短く言う。
「戻れ」
紗奈の指から力が抜ける。
床に落ちる音は、今度は何も壊さない。
――TSO医療室
白い光が、やけに静かだった。紗奈はベッドの端に座っている。
薫の質問を待つように、まっすぐ前を見ていた。
その視線の先にいるのは薫ではない。壁にもたれたままの透也だった。
「昨日の発作、覚えてる?」
薫の声は淡い。
紗奈は一瞬、言葉を探す。
「……透也を」
紗奈は恐る恐る透也の方を見上げた。シャツの襟元から昨日の傷跡が少し見えている。
「違う」
透也が即座に遮る。
声音は冷たい。だが、早すぎる。
「お前は何もしていない」
それは事実というより、命令に近かった。
紗奈の指がわずかに震える。
「ごめんなさい……」
薫は一度だけ目を伏せる。そして薬を準備する。
個室に移された紗奈が眠りに落ちた後。部屋の空気が変わる。
「離れた方がいい」
薫が言う。
「彼女を護衛にするなんて、正気じゃない」
透也はすぐには答えない。窓の外を一度だけ見る。
「今さらだ」
短く言う。
薫は続ける。
「君しかいないって思い込んでるだけだ」
その言葉に、透也の指が一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
本当に、何でもない間。
「……思い込みでも構わない」
薫が眉をひそめる。透也は、窓ガラスに映る自分たちの影を眺めた。
「それは救いじゃない」
透也は視線を戻さないまま言う。
「救いじゃなくていい」
そして、少しだけ遅れて続ける。
「俺がいなければ、あいつは戻れない」
「俺がいれば、壊れる」
一度息を吐く。
「それでも」
間。
この間だけが、さっきの言葉より重い。
「……一緒にいる」
「どちらかが死ぬまでだ」
薫はもう何も言わなかった。
ただ、この二人はもう普通の場所には戻れないという顔をした。




