41―交わらない視線
透也は警備会社のトップとして立つために、自身も警護の基礎トレーニングを受けていた。
それを請け負っていたのが梶勇人だった。
十二歳の紗奈は、私邸のトレーニング室で梶に何度も組み敷かれる透也を部屋の隅で見学していた。
不思議な光景だった。
いつも完璧な男が、額から汗を流し膝まずかされている姿に。
透也も人間なのかもしれないという疑念。
彼も自分を置いて行くのではないかという恐怖。
その時、初めて紗奈は「強さ」を求めた。
だからこそ、透也は止められなかった。
梶は透也の許可を得て、S/F社の対人訓練施設に紗奈を案内した。
ガラス越しに、隊員たちがそれぞれの課題に向き合っている。
打撃音、足音、指示の声。
規則正しいはずの空間は、どこか生々しい緊張を帯びていた。
その中の一角で、ひとりの男が対ナイフの実技訓練を行っていた。
刃は模擬用。だが動きは本物だった。
紗奈はその動きを見た瞬間、身体の奥が冷えるのを感じた。
恐怖ではない。
理解だった。
距離、踏み込み、逃げ道の消失。
それらが一本の線のように繋がって見える。
「興味があるのか?」
背後から梶の声が落ちる。
紗奈は視線を外さないまま、小さく頷いた。
梶は一瞬だけ沈黙し、それから扉に視線を向ける。
「入れるか」
ガラスの向こうの訓練エリアへ、紗奈は足を踏み入れた。
「梶さん。今日はどうしたんすか? かわいい子連れちゃって」
軽い声が飛ぶ。
梶は視線だけで応じる。
「洸樹。相変わらずだな」
洸樹は笑いながら、梶の後ろにいる紗奈へと目を向けた。
不安そうに揺れる瞳。
その揺れの奥に、なぜか“重さ”だけが沈んでいる。
「梶さん。それ」
紗奈の視線が、洸樹の手元に落ちる。
そこにある模擬ナイフ。
何かを欲している。
だが、それが何かは言葉にならない。
梶は一瞬だけ迷う。
(今これを渡せば、戻れなくなる)
「ん? ナイフに興味あるなんて珍しいですね。その子」
洸樹が軽くナイフを持ち上げる。
「でもこれはおもちゃじゃないよ。お嬢さん」
その瞬間だった。
空気が変わる。
理由の説明がつかない“静かな圧”だけが、洸樹の呼吸を一瞬だけ乱す。
(――なんだ)
戦闘でもない。威嚇でもない。
ただ“見られている”という事実だけで、身体が止まる。
(なんだ、この目は)
どんな敵とも違う。
訓練場でも、実戦でも見たことがない。
(人間の目じゃない)
紗奈は医務室にいた。
簡易ベッドに腰掛けたまま、届かない足を意味もなく揺らしている。
さっきの感覚がまだ残っている。
発作ではない。だが、どこか落ち着かない。
結局、紗奈はあのナイフに触れることができなかった。
「欲しいなぁ、あれ」
言葉は、考える前に落ちていた。
「紗奈、今なんて言った」
ちょうど室内に入ってきた透也が、その声を拾う。
視線が静かに向けられる。
「欲しいものがあるのか」
その一言で、空気が少しだけ重くなる。
紗奈は一瞬だけ止まる。
これは言っていいことなのか。
それとも、言ってはいけないものなのか。
判断が、わずかに遅れる。
そしてその遅れごと飲み込むように、
「……何でもない」
「嘘をつくな」
圧のある声に、紗奈の肩が小さく跳ねる。
「ごめんなさい……」
透也は、一瞬だけ目を伏せた。
失敗した、と思う。
ただ、掴み損ねたものを戻したかっただけだ。
透也は紗奈を抱き寄せた。
それは慰めではなく、落ちかけた輪郭を固定するための動作だった。
その時だった。
視線の端で、わずかな気配が揺れる。
医務室の入口。
和馬が立っていた。
役員会議を抜けた理由を探しに来たはずだった。
だが、目の前の光景はそれとは別の意味を持っていた。
透也の表情が一瞬だけ消える。
和馬は、動かない。
驚きでもない。動揺でもない。
ただ、目の前で起きている事象を、自らの管理下にある資産価値として冷徹に「分類」しようとする、無機質な瞳があるだけだった。
紗奈を抱く息子。
それを見下ろす視線は、感情というより判断に近い。
そして、その沈黙のまま。
空気だけが硬くなっていく。




