37―学園祭③
紗奈が交代の時間になり、蝶ネクタイとベストを脱ぐ。
周囲の熱気が、急に現実の重みを持って紗奈を襲う。
ディーラーという「役割」を脱ぎ捨てて、ふと顔を上げた先、教室の隅で不釣り合いなほど端正に立つ透也の姿が目に入った。
女子生徒たちが控えめな熱量で彼を遠巻きに眺めているのがわかる。紗奈にとっての「保護者」が、他者の視界に触れていることへの奇妙な居心地の悪さを感じながら、彼女は透也の元へ歩み寄った。
「……本当に来たんだ」
「来ると言っただろう」
透也の視線が紗奈の顔に止まる。
いつもより高く結い上げられた髪。
慣れない化粧。
蝶ネクタイを外し、釦を外した無防備な首元。
それはスーツのネクタイを外した、二人きりのときだけに見せる紗奈の姿だった。
「紗奈」
「なに?」
透也は少し眉をひそめた。
「リップが濃い」
そう言って親指が唇をなぞる。
紗奈が目を瞬かせる。
「やばっ」
前方で澪が思わず呟いた。
洸樹は固まる。
数秒後。
「……」
「洸樹?」
「見てない」
「見てたでしょ」
「俺は何も見てない」
「現実逃避やめなさい」
洸樹は真顔だった。
「俺はまだ死にたくない」
教室を後にした洸樹と紗奈は模擬店が並ぶ校庭に移動した。
簡易テーブルに座り、澪がクレープを頬張りながらふと思い出したように言う。
「紗奈、大丈夫かな」
「何が?」
癖で人の流れを見ながら、使い捨て容器に入ったカフェオレを飲んでいた洸樹が言う。
「結構しんどいと思う。紗奈には両親がいないから」
「……」
紗奈は透也を教室がある区画とは違う、ギャラリー室に案内した。
校内の喧騒が、一枚の扉を隔てて遠い世界の出来事のように消えていく。
ギャラリー室の空気は、窓から差し込む夕日の光を吸い込んで、どこか澱んだ静けさを湛えていた。
整然と並ぶ額縁の中の風景は、どれも紗奈が今いる現実とは無縁の場所を切り取っている。
床に落ちる二人の影だけが、重なり合ったり離れたりしながら木製の床を滑っていく。
透也は一歩歩くごとに、まるで紗奈との距離を測り直すかのように深く静かな呼吸を繰り返していた。
紗奈は一枚の絵画の前で足を止めた。それに追従するように透也もその絵を観る。
グレーの霧がかかったような風を感じるのに静かな風景画。
その中に小さく人は配置されているが、それは風景の一部としてあるだけ。
紗奈がぽつりとつぶやく。
「……ずっとここにいられたらいいのに」
それは何に向けられた言葉なのかひどく曖昧だった。
だがその言葉は、透也の胸を鋭く抉った。それは間違いなく紗奈の隠し切れない感情。
透也は何も言えなかった。
動かない透也を不思議に思い、紗奈は首だけ後ろに向け見上げた。
「今日は、来てくれてありがとう」
「当然だ」
紗奈はその答える速さに目を見開いた後、苦笑しながら透也の先を歩いた。
そうしないと透也に泣きそうな自分を見せてしまうから。




