36―学園祭②
ドアの隙間から、その一人が入ってきた。
周囲に馴染むはずのない、あまりにも整いすぎたスリーピースの背中。
周囲の女子生徒たちが、一瞬息を呑んで彼を振り返る。
彼は、獲物を探す獣の目ではなく、もっと静かで――どこか渇ききった瞳で、教室内を見渡している。
透也は紗奈のテーブルの前で足を止めた。
洸樹と澪が囁く。
「一直線だな」
「一直線ね」
洸樹が何事もなかったように透也に声をかける。
「チーフ!遅かったですね」
「……お前たちは早いな」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、その視線が動かなくなる。
紗奈は、カードを配る手を止めなかった。
心臓が少しだけ、拍動を早める。
紗奈が淡々とカードを捌くたび、周囲の客はどこか畏まるような空気を纏う。
それは学園祭の出し物としては奇妙な光景だった。高校生らしい浮ついた楽しさよりも、質の高い緊張感がその卓を支配している。
「本当に、落ち着き払っているね。うちの娘とは大違いだ」
別の保護者が感心したように呟く。後ろで見ていた母親が、紗奈に話かける。
「本当ね。あなたお名前は?」
「城瀬紗奈です」
「城瀬?」
母親の表情がわずかに変わった。
この学園のセキュリティシステムを担っている、S/F社の名を知らない保護者の方が少ない。
澪は嫌な予感がして洸樹の肩を叩いた。
「ほら、洸樹。チーフと代わって」
端に座っていた洸樹を席から立たせる。
透也がジャケットのボタンを外し、ゆっくりと席に腰を下ろした。
周囲の保護者たちは、透也が放つ独特の――厳格なビジネスの場をそのまま持ち込んだような圧力に、無意識に距離をとる。
「あら、こちらはお知り合い?」
好奇心からではなく、年頃の娘を心配する母親のそれだった。
「はい。兄です」
母親はほっとしたように息をついた。
「父は多忙ですので、私が代理で」
透也は穏やかに微笑む。
その笑顔は完璧だった。
だからこそ、紗奈は視線を上げられなかった。
「紗奈、カードを。勝たせてもらえるか?」
透也は値踏みするように紗奈を見上げる。
紗奈は淡々とカードの束をシャッフルする。その指先の動きを、透也は一瞬たりとも見逃すまいと追っていた。
透也が渡されたコインをテーブルの中央に置く。 紗奈は迷いなくカードを配った。
二人の間に、学園祭の喧騒は存在しない。
その時だった。
透也の隣に座った男性が、手からコインを落とす。
コインが手を離れる。
その瞬間だった。
紗奈の身体が先に動いた。
カードを持ったまま伸びた左手が、空中のコインを弾き飛ばす。
乾いた音を立ててコインが洸樹と澪の足元の床に転がった。
数秒遅れて、
「あっ」
と男性が声を漏らす。
「今の紗奈の動き……」
「ああ」
「一般人なら見えてないわね」
澪がコイン型のチョコレートを拾って男性に渡す。
「おっと……すみません」
紗奈の指先はカードの束を保持したまま、透也の右腕へと鋭く伸びたその余韻を、硬直した筋肉に残している。
(しまった……)
今の動作は、カードを配るディーラーのそれではない。
護衛の、それも極めて習熟した者が行う「排除」の軌道だ。
一瞬の静寂がテーブルに落ちる。周囲の楽しげなざわめきが、紗奈にはノイズのように遠ざかって聞こえる。
透也は、腕を払われたその位置から、ゆっくりと視線を上げ、紗奈の瞳を捉えた。
「……さすがだな」
それだけだった。
だが紗奈は知っている。
透也が今、機嫌を良くしていることを。




