33―一線
翌日からの二人は、明らかにおかしかった。
透也は普段通りだった。会議に出席し、部下へ指示を出し、書類に目を通す。
何も変わらない。少なくとも表面上は。
だが、紗奈は違った。透也が話しかければ返事はする。
業務命令にも従う。必要な報告も行う。
それなのに、一度も目を合わせなかった。まるで無意識に避けているように。
あるいは、合わせてはいけないものを避けるように。
TSOの人間たちは、その異常さに気づいていた。気づいていたが、誰も触れなかった。
触れた瞬間に何かが壊れる。
レイモンドが、紗奈をランチに誘いにきた。
「紗奈、日本食のお店に行こう。透也お前も来るか?」
紗奈は一瞬、透也の顔色を窺うように視線を動かしかけたが、すぐに視線を足元に落とす。
「チーフが行くなら行ってもいい」
「だそうだ」
レイモンドが不意に、紗奈のすぐ傍まで歩み寄る。
そして、彼女の髪の毛先に視線を落とし、甘く響くような声で言った。
「おや、糸くずがついているよ」
そう言って、紗奈の髪に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、透也の低い声が割り込む。
「気安く触るな」
紗奈が気まずそうに顔をそらす。
レイモンドは素直に手を引いた。
「なるほど」
その口元は笑っている。
「それは彼女に言っているのか?」
「それとも私に?」
三人がオフィスから去って行ったあと、洸樹が澪の席まで椅子を転がしていく。
「……どうなってんの、あれ」
「知らない」
洸樹が額を押さえる。
「チーフが浮気したとか?」
「殺されるわよ」
「だよな」
「紗奈が浮気したとか?」
「それもない」
「だよな」
沈黙。
「じゃあ何なんだよ」
「だから知らないって言ってるでしょ」
静寂が、料亭の庭園から聞こえる蹲の水音をより際立たせていた。
「で?君たちはどこまで行ったんだ?」
レイモンドが長い指先でガラスの酒器からお猪口に日本酒を二つ注ぐ。
透也が食べていた刺身に咽る。紗奈がナプキンを透也に差し出す。
「どこにも行ってません」
天然なのか、本気で言っているのかわからない。
「まぁ冗談はさておき。紗奈、そろそろ和馬・城瀬に本気で排除されるぞ」
レイモンドの冷徹な一言で、紗奈の箸が止まる。紗奈の表情からすっと熱が消える。
(そうだ、私は――)
その時、紗奈の手を覆うようにして、透也の手が重ねられた。
思わず顔を上げると、透也が彼女を射抜くような瞳で見つめていた。彼女の存在そのものを、どんな犠牲を払ってでも手元に繋ぎ止めようとする、暗い熱量だった。
「いっそアメリカに来るか?」
レイモンドが日本酒をあおる。
紗奈は少し考えてから首を横に振る。
「私がいなくなれば済む話でしょう」
静かだった。
その瞬間。
透也の指先が強く食い込む。
「二度と言うな」
低い声だった。
(まただ……)
紗奈は重ねられた手から、そっと自分の手を引いた。
(また間違えた)
どう言えば良かったのだろう。
最近、それが分からない
(もっと上手くやらなきゃ)
紗奈は、箸を持ち直し食事を続けた。
ランチから戻りチーフ室の重厚な扉が閉まるや否や、透也は紗奈をデスクへと追い詰めた。
逃げ場を失った彼女の腰を、透也は容赦なく引き寄せる。デスクの縁に身体が当たる音など、今の彼には聞こえていない。
「……っ、透也」
制止の言葉は、すぐさま透也の唇に塞がれた。
先ほどの料亭の清冽でいてどこか痺れるような日本酒の苦みが、透也の呼気と共に紗奈の口内に流れ込んでくる。
紗奈が腰を引こうとすればするほど、透也は逃がさないとばかりにその身体を自分の胸にねじ込んだ。
角度を変え、深く、執拗に。
それは命令でも支配でもなく、紗奈という存在を自分という檻に物理的に溶かし込もうとするような、飢えたものだった。
「んっ……ぁ……」
隙間から空気を貪ろうとすれば、その隙間すら埋められる。
境界線を越えてしまった代償は、あまりに重い。
透也が唇を離すと、銀糸が二人の間を繋いでいた。
彼は荒い呼吸のまま、潤んだ瞳で紗奈を凝視している。
「……アメリカには行かせない」
紗奈は後ろ手でデスクの端を掴む。
その言葉は、所有権の宣言というよりは、崩れゆく自分自身を繋ぎ止めるための祈りのようだった。
(私の一言で、透也が壊れる……)
紗奈が透也の視線から逃れるように伏し目がちになる。
空調の音だけが聞こえる。
「……何を考えている」
透也の低い声は、微かに掠れている。
紗奈は自分の下唇を噛んだ。
答えられない。
どこで間違えるか分からない。
ただ一つだけ分かるのは、透也の顔を見るのが怖いということだった。
あの日から二人の距離は普通になった。
少なくとも周囲にはそう見えた。
いつも通り食事をし、いつも通り仕事をこなし、いつも通り隣に立つ。
だが、透也には分かった。
何かが違う。
言葉では説明できないほど僅かな違和感だった。
視線。
間。
呼吸。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、どこか遠い。
以前の紗奈はもっと単純だった。
嬉しければ嬉しそうな顔をしたし、困ればすぐにこちらを見た。
今は違う。
何かを考えている。
そして、その何かを隠している。
透也は無意識にペンを握り締めた。
レイモンドが何を吹き込んだのかは知らない。
だが確かなのは、あの日を境に紗奈の中に、自分の知らない部屋が一つ増えたということだった。
(第五幕――完)




