32―箱が開いた後
朝の陽光が差し込むダイニングは、昨日までの殺伐とした気配を消し去り、いつも通りの静謐な空間を保っていた。
透也は隙のないスリーピース姿で、コーヒーを口に運んでいる。
何事もなかったかのように、昨夜の激情を押し殺した男の背中は、普段通りの「保護者」のそれだった。
「紗奈、体調はどうだ?」
穏やかな声。首には昨日の傷の手当が痛々しくある。
透也はいつものように、慈しむような手つきで紗奈の髪に触れようと手を伸ばした。
だが。
ふわり、と。 紗奈の身体が、意志とは無関係に反射的に半歩後ろへ下がっていた。
透也の手は虚空を切り、柔らかな髪に触れることはなかった。
彼は自分の宙に浮いた手を見つめ、何も掴めなかった指先を折り畳むと、その手を下ろした。
その一瞬だけ、彼の瞳に自嘲に近い色がよぎる。
「……大丈夫」
紗奈の声は、昨日にも増して平坦だった。
自分でも驚くほどの拒絶反応だった。
あれほど長い間、彼の手に導かれ、支配されることに慣れきっていたはずなのに、身体の奥底が本能的に「彼」を遠ざけようとしている。
「今日は学校休みだろ。ゆっくりするといい」
透也はコーヒーカップを静かにソーサーに戻す。
彼の態度は完璧なまでに日常を守ろうとしているが、その背中がわずかに強張っていることを、紗奈は見逃さなかった。
紗奈はテーブルの上の、冷めかけたスープを見つめる。
昨夜の感触が消えない。
透也の手が伸びた瞬間、身体が勝手に動いた。理由は分からない。
紗奈はスプーンを握り直すが、喉の奥が詰まって何も飲み込めそうになかった。
――TSO統括チーフ室
重厚なチーム室の扉が開かれる。
「ふーん、ここがお前たちの愛の巣か」
レイモンドが、土足で踏み込むような態度で入ってきた。
書類を整理していた透也の手が、ピタリと止まる。
レイモンドが面白半分に突き刺したその言葉は、透也が昨晩、バスルームで自らの理性と戦い、今朝、紗奈の拒絶に傷ついたその心の急所を的確に射抜いていた。
透也はゆっくりと、レイモンドから顔を背ける。
怒りを露わにするわけでも、冷笑で返すわけでもない。
ただ、その動揺は、彼が普段見せる氷のような冷静さとは一線を画していた。
レイモンドは、面白がるようにデスクの端に腰掛ける。
「彼女に避けられたか?」
透也の手が止まる。
「お前には関係ない」
レイモンドは笑う。
「安心しろ。あれは嫌われたんじゃない」
透也が睨む。
「初めてお前を男として認識しただけだ」
透也はその言葉の意味を瞬時に理解したが、認めることを激しく拒絶するように、ペンを机に叩きつけた。
「……黙れ」
「なら何故そんな顔をする」
レイモンドは悠然と肩をすくめ、透也のデスクの縁を指で軽く叩く。
「一緒に眠れなくなる……」
それ以上聞きたくなかった。
レイモンドは数秒だけ黙った。
そして珍しく笑わなかった。
「……なるほど。そういうことか」




