31―パンドラの箱
――TSO医療室
白く、薬品の匂いが立ち込める医療室。
紗奈は血で汚れたシャツを脱ぎ捨て、ビスチェ型の防弾チョッキだけを身に着けたまま、診察台に腰を下ろしていた。
彼女の首元には、先ほど訓練場で刻んだ鮮やかな赤が広がっている。
勤務医の薫は、無言で彼女の首を消毒する。
「何も言わないんだ」
紗奈が小さく漏らす。
薫は消毒液のボトルを戻しながら肩をすくめる。
「……首を切るとは思わなかったけど、似たようなことはすると思ってた」
薫の言葉は淡々としている。
紗奈は抵抗もせず、ただ天井の白い光を見つめている。
「痛むかい?」
「別に」
薫は手際よく医療用テープを傷口に貼り、さらにその上から防水テープで念入りに塞いだ。
処置は終わりだ。
しかし、彼は手を止め、紗奈の視線を正面から受け止めた。
「……君は、そうやって自分を壊し続けるのかい」
紗奈は視線をわずかに揺らす。
「それの何がいけないの」
「透也が傷つく」
紗奈は少しだけ瞬きをした。
まるで初めて聞いた話みたいに。
「……そうなんだ」
帰りの車内は静かだった。透也は紗奈の方を見ようともしない。
いつもは何か言いたげでこっちを見ているというのに。
「透也、怒ってるの?」
紗奈の問いかけに、透也は答えない。
邸に着くと紗奈は浴室へ入り、シャワーを浴びる。
熱い湯が流れる中、ふと力が抜けた。
(……疲れちゃったな)
思考が途切れ、紗奈は浴槽の縁に肘をついたまま、座り込んだ。
どれほど時間が経ったのか。
浴室のドアが乱暴に開く音がして、透也が飛び込んできた。
「紗奈!」
彼はシャツのまま、迷いなくバスルームに踏み込んでいた。出しっぱなしのシャワーが、彼の髪を、衣服を、瞬く間にずぶ濡れにしていく。
透也は凍りつくような表情で浴槽の縁に駆け寄り、力なく座り込む紗奈を力任せに引き寄せた。
「……透也?」
紗奈の声は、水の音にかき消される。
透也は彼女を強く抱きしめ、自分のシャツが紗奈の濡れた肩に張り付くのも構わず、彼女の身体を自分の胸にねじ込んだ。
「濡れるよ?」
透也は答えなかった。
ただ抱き締める腕だけが、少しずつ強くなる。
紗奈はその痛みに小さく瞬きをした。
その時になってようやく、自分が思っていたより深く彼を傷つけていたのかもしれないと考えた。
「もういい」
透也の低い声が、湿気った空気を切り裂く。
彼は紗奈の濡れた両手首を掴んで、逃げ場を塞ぐように、その唇を強引に重ねた。
激しく、飢えたようなキスだった。
紗奈は瞬きをする間もなく、透也の熱と、彼が纏う水と、逃げ場のない腕の中に沈められた。
「んっ……透也っ」
名前を呼ぶ声は、容赦なく飲み込まれた。 透也のキスには、切迫した熱が混じっている。
苦しい。
肺から空気が搾り取られ、思考が白く塗りつぶされていく。
(……こんなキスは、知らない)
(知りたくない……)
盾でいられなくなる。
そんな気がした。
だが、透也の腕の中で身をよじりながら、紗奈の意識の片隅で、冷めた沈黙が告げている。
――逃げられない。
そう思った。
ただ、滴り落ちるシャワーの水音と、透也の荒い呼吸だけが、この閉ざされた空間のすべてだった。
彼は紗奈の濡れた髪を指に絡め、さらに深く、彼女の逃げ場を奪う。
紗奈は目を閉じた。
「……頭を冷やしてくる」
透也はシャワーを止め、タオルを紗奈にかけるとバスルームから出て行った。
紗奈は自分の手が震えていることに気づいた。
だが、これが何の震えなのかわからなかった。




