26―静かな波紋
洸樹の端末には簡潔な人物記録が表示されていた。
『PERSONNEL FILE / 人物記録
Sana Shirose(紗奈・城瀬)
Two years ago, Sana Shirose completed a one-year field training program under Raymond’s command at Aegis Grenford.
2年前、イージス・グレインフォード社にてレイモンドの指揮下で一年間の実地研修を経験。
Training-period evaluation records are retained; however, post-assignment reassessment within TSO remains pending.
研修時の評価記録は保持されているが、TSO所属後の再評価は未確定』
――三十六階ブリーフィング室
ブリーフィング室の空気は比較的穏やかだった。
手元の端末を眺めていた洸樹が、感心したように呟く。
「へぇ。紗奈ってイージス社で研修受けてたんだ。どうりで……」
画面には簡潔な経歴が並んでいる。澪が視線を上げ、軽く溜息をついた。
「イージスの代表も来日されるんですか?」
梶は資料から視線を外さず答える。
「チーフの話によると、そのようだ」
一瞬の沈黙。
澪は眉をひそめた。
「うわっ。最悪」
「なんでだよ」
洸樹が笑う。
澪は即答した。
「チーフの機嫌が悪くなる」
「ああ……」
洸樹は心底納得したように深く頷いた。
――イージス社所有のプライベートジェット
高度一万メートル。
雲海の上を、白い機体は静かに切り裂いていた。
キャビン内は照明を落とされ、必要最小限の明るさだけが保たれている。外界との接続は完全に遮断されていた。
前方モニターに日本時間と座標が表示される。
「現在位置、太平洋上空。予定通り」
パイロットが短く告げる。
長い脚を組み、シャンパングラスを揺らし厚みのあるクッションの座席に体を預けたレイモンドがいる。
「ボス、嬉しそうですね」
エージェントの女性が意外そうに言った。
レイモンドはグラスを傾ける。
「久しぶりだからね」
「サナですか?」
「それもある」
「透也もだ」
女性は目を瞬かせた。
「TSO代表の?」
「ああ」
「二人は兄妹なんですよね?」
レイモンドは窓の外へ視線を向けた。
「あんな兄妹、他にいないね。随分面白いことになっている気がする」
「何がです?」
「さあ」
そう言って笑う。
その笑みを見て、女性はそれ以上聞くのをやめた。
雲海だけが、何も知らないまま広がっていた。
空港のVIP出口が開き、レイモンドとエージェント達が姿を現す。それをTSOメンバーが迎えた。
レイモンドは透也を一瞥し、そのまま紗奈へ視線を移す。
周囲の誰も気づかなかったが、空気がわずかに張り詰める。
「久しぶりだね、紗奈」
軽く片手を上げ、肩に触れる程度の距離で彼女の存在を確かめるように近づく。
洸樹と澪がわずかに身構える。
「離れろ、レイモンド」
透也の声は低い。
「何だ。歓迎くらいしてくれてもいいだろう」
レイモンドは肩をすくめる。
紗奈は特に抵抗もせず、ただそこに立っている。
その様子を見て、レイモンドは小さく息を吐いた。
「相変わらずだな」
軽く距離を取る。
「……まじかよ」
洸樹が呟く。
「言ったでしょ。最悪だって」
澪が淡々と言う。
(俺、命がいくつあっても足りないかも……)
――S/F社上層階のレセプションルーム
社長と役員との挨拶を終えた透也とレイモンドは、並んで会場へ戻ってきていた。
イージス社の女性エージェントが紗奈へ視線を向ける。
「あなたがサナね。ボスとは随分親しいみたい」
「レイは、私に戦い方を教えてくれた人です」
紗奈の視線が一瞬だけレイモンドへ向く。
(あの人がいなければ、私はここにはいない)
その視線を、透也が捉える。
胸の奥がひりつく。気づかれないように目を逸らしたつもりだった。
だが紗奈は、その視線の変化に気づいていた。
困ったように、小さく笑う。
レイモンドはその一連を見ていたが、特に何も言わない。
ただ楽しむようにグラスを揺らす。
レイモンドの姿を見るたびに、紗奈はあの一年を思い出す。
十五歳の時。
アメリカでの一年間。
紗奈は“生き残るための速度”を教えられた。
敵を無力化する最短距離。
周囲の気配を常に読み続ける癖。
それは今も消えていない。
静けさの中では、張っていた感覚だけが残ってしまう。
だから社交の空気は、彼女にとっては少しだけノイズになる。




