24-普通の時間
紗奈は次の日学校を休んだ――
華がホテルのショーケースの前で足を止めたのは、ただの偶然だった。ガラスケースの中に並ぶケーキを、ひとりの少女がじっと見つめている。
生成りのワンピース。
肩まで落ちた黒髪。
細い背中。
その横顔を見た瞬間、華は思わず立ち止まった。
「……紗奈ちゃん?」
少女がゆっくり振り返る。
その瞳を見た瞬間、華は言葉を失った。
驚いたみたいに肩を強張らせ、逃げ道を探すみたいに視線が揺れる。
現場の紗奈には、絶対にない反応だった。似ている。
顔も、声も、仕草も。
なのに別人みたいだった。
「……あ」
少女は小さく目を伏せる。店員から紙袋を受け取り、そのまま立ち去ろうとする。
華は思わず笑った。
「ごめんなさい。人違いだったみたい」
そう言いながらも、胸の奥の違和感が消えない。むしろ、声を聞いたことで、余計に確信に近づいていく。
――紗奈ちゃんだ。
なのに、自分の知っている紗奈じゃない。
少女は小さく会釈すると、足早に歩き出す。華は反射的にその背中を追った。
「華!?」
後方でマネージャーが慌てた声を上げる。
だが華は止まらない。
(確かめたい)
もし本当に紗奈なら。
あの異様な少女なら。
(これがあの子なら、触れることすらできないはず)
華がその腕へ手を伸ばした瞬間だった。
黒い影が、一瞬で間に割り込む。
透也だった。
彼は少女を背後へ庇うように立ち、華の手を遮る。
その動きは自然すぎて、華は一瞬、自分が何をされたのか理解できなかった。
「高月様?」
透也にぶつかった拍子に、少女の手から紙袋が落ちる。
中のケーキが崩れる鈍い音。少女は目を見開き、小さく息を呑んだ。
「あ……」
その声は、現場で聞く紗奈の声よりずっと幼かった。
「華!?何してるの、ごめんなさい!」
追いついたマネージャーが青ざめながら頭を下げる。
少女は困ったように微笑み、首を横に振った。
しゃがみ込み、崩れた箱を拾い上げる。
再び小さく会釈すると、去っていく。
透也はその背中を見送っていた。
追いかけない。
呼び止めもしない。
ただ、他人の視線から隠し終えたことを確認するみたいに、静かに立っている。
華はその横顔を見た。
そして、初めて理解する。
――この人、誰かを愛しているんじゃない。閉じ込めているんだ。
本日の警護業務を終え、透也がホテルの部屋へ戻る。
部屋は暗かった。
ベッドの傍らのデスクには、さっき落としたケーキの箱が開いたまま置かれている。
崩れたクリーム。
潰れたチョコレートの花。
その横で、紗奈はワンピース姿のままベッドに横になっていた。掛け布団には入っていない。
ただ静かに、背を向けて目を閉じている。
透也は小さな箱をテーブルへ置いた。
「紗奈、ケーキを買ってきた」
ちょうどそのタイミングでルームサービスが届く。
紅茶の香りが、静かな部屋に広がった。
紗奈はゆっくり身体を起こし、透也と向かい合うようにソファへ座る。
テーブルの上には、小さなチョコレートの花が添えられたケーキ。
紗奈は何も言わず、フォークを取る。
カップに注がれた紅茶からは穏やかな湯気がたっている。
静かに一口食べた。
紗奈にとっては今日初めて口にする食事だった。
透也はネクタイを緩め、ジャケットを脱ぎながら、その姿を見つめていた。
この時間だけだった。
外では決して存在できない時間。
VIPと護衛。
上司と部下。
兄と妹。
その境界が、ほんの少しだけ曖昧になる密室。
紗奈はもう、ホテルのショーケースの前にいた少女の顔をしていなかった。けれど透也には、あの時の彼女が焼き付いて離れない。
ケーキを見つめていた、年相応の少女。触れれば壊れそうなほど柔らかかった横顔。
透也は不意に立ち上がると、そのままバスルームへ入った。
洗面台に両手をつく。鏡を見ることができない。
静かな呼吸だけが、狭い空間に響く。
そして、堪えきれないように目を閉じた。
控えめなノックの音がした。
扉越しに、紗奈の声が聞こえる。
「明日からは、ちゃんとあなたの盾に戻るから」
透也は息を止めた。
その言葉には感情がなかった。
慰めでも、甘えでもない。
ただ、自分自身を再び“道具”へ戻そうとする、静かな決意だけがあった。
透也は額を冷たい陶器へ押し当てる。
彼が欲しかったのは、こんな従順ではない。命令に完璧に応える盾でもない。
ただ、自分だけを見て笑っていた、あの頃の紗奈だったはずなのに。
なのに今、彼女は自分から「完成された道具」になろうとしている。それが透也には、何より残酷だった。
(……俺が、お前をこうしたのか)
蛇口をひねる。
冷水が肌を打つ。
透也はゆっくり呼吸を整え、再び“チーフ”の顔を被った。
部屋へ戻ると、テーブルの上には、食べ終えた皿だけが残されていた。
紗奈はまた背を向けて横になっている。透也はベッドサイドへ立ち、その背中を見下ろした。
眠っていないことくらい、分かっている。けれど彼女は振り返らない。
透也は一瞬だけ、その髪へ触れようとした。だが指先は空中で止まり、そのまま静かに下ろされる。
触れれば、彼女はまた“盾”として微笑む。それが耐えられなかった。
「……明日は七時だ」
紗奈は小さく頷く。
それだけ。
透也は窓辺へ歩き、夜景を見下ろした。
華はまだ何も知らない。
自分が見た“普通の少女”が、どれほど歪な場所へ戻っていったのかを。
そして透也自身もまた、その歪みの中心に立ちながら、もう引き返せなくなっていることを。
(第四幕――完)




