22―等身大
鏡の中に映っていたのは、知らない少女だった。ペールピンクのニットワンピース。
むき出しの首筋。そこにいるのは、誰かに守られる側の人間だ。
紗奈は、無意識に自分の左内腿へ触れかける。そこにはもう、ホルスターの感触がない。
「紗奈ちゃん? サイズどう?」
華が楽しげに扉の隙間から覗き込む。
「えっ、すごくかわいい!」
その言葉に、紗奈は小さく目を伏せた。
かわいい。
その評価が、自分の皮膚の上を這うみたいで気持ち悪い。
「やはり、スーツではだめでしょうか」
鏡から視線を逸らしたまま、紗奈は言った。
「似合ってないので」
「そんなことないわよ。せっかくだし、今日は普通の女の子みたいに過ごしましょ?」
普通。
その言葉に、胸の奥が鈍く軋む。自分はもう、そちら側には戻れない。
部屋の扉が開いた瞬間、透也の足が止まった。
ペールピンクのニットワンピース。
下ろされた黒髪。
いつもは黒いスーツの中に隠されている少女の輪郭が、今日はあまりにも無防備に露出していた。
透也の視線が、静かに細められる。
華は楽しそうに笑った。
「どう? 可愛いでしょう?」
洸樹は、資料に視線を落としたまま、できるだけ何も見ないようにしていた。
見れば面倒になる。この現場で長く生き残るには、「見えても見えないふり」が必要だ。
だが、扉が開いた瞬間だけは、さすがに視線が動いた。
「――……」
一瞬、誰か分からなかった。
黒いスーツでも、学校の制服でもない。淡い色のニットに、下ろされた黒髪。
年相応の少女だった。
その姿が、逆に洸樹の背筋を冷やした。
(おいおい……華さん、何着せてんだよ)
似合ってしまっている。
それがまずかった。
今まで紗奈は、意図的に“少女”に見えないようにしていた。
スーツも、髪型も、立ち方も、視線も。
だが今は違う。隠されていた年齢だけが、無防備に表へ出ている。
そして何よりまずいのは――透也だった。
洸樹は、ゆっくり視線を横へ滑らせる。
透也が、紗奈を見ている。
その瞬間、洸樹の中で警報が鳴った。
(……チーフ、駄目な顔してるな)
表情は変わらない。
声も低いまま。
だが長年一緒にいる洸樹には分かる。
透也の瞳には、護衛としての冷静さは微塵もなかった。
無防備に露出した紗奈の輪郭を他人の目に晒すこと。その事実が、彼の中で『保護』という建前を粉々に砕き、自分以外のすべての視線を排除したいという剥き出しの飢餓感を呼び覚ましていた。
華は気づかずに笑っている。
「すごく似合ってるでしょう?」
透也は数秒黙ったあと、静かに言った。
「……似合いすぎるんですよ」
その声を聞いた瞬間、洸樹は反射的に視線を逸らした。
踏み込むな。
本能がそう告げていた。
あれはもう、自分みたいな人間が触っていい空気じゃない。
紗奈の肩に置かれた透也の手が、ほんのわずかに強くなる。紗奈は抵抗しない。だが、その沈黙が逆に危うかった。
(ほんと、この二人……)
洸樹は小さく息を吐く。
もうとっくに、上司と部下の距離じゃない。
けれど誰も、それを口にはできない。
口にした瞬間、
この均衡は全部壊れる。
ホテルの上層階にあるカフェは、夜景を売りにした静かな空間だった。ガラス窓の向こうには、都会の灯りが果てなく続いている。テーブルの上には淡い間接照明が落ち、食器の銀縁だけが静かに光を返していた。
華は機嫌が良さそうだった。
「紗奈ちゃん、ご飯まだでしょう?」
「問題ありません。お気遣いありがとうございます」
「問題あるとかじゃなくて。一緒に食べたいの」
華はそう言って、当然のように紗奈の腕を引いた。
紗奈は抵抗しない。
その様子を、透也は向かいの席から無言で見ていた。
視線は穏やかだった。
だが実際には、華の指先が紗奈の袖に触れるたびに、その瞳の奥で何かが静かに軋んでいる。
「紗奈、好意は受け取っておけ」
低い声だった。許可というより、命令に近い。
「ほら、透也さんもそう言ってるし」
華が笑いながらメニューを差し出す。紗奈はそれを受け取り、小さく微笑んだ。
「……では、お言葉に甘えて」
その微笑みは綺麗だった。綺麗すぎて、どこか空虚だった。
注文を終えたあと、華がストローを指先で弄びながら言う。
「ねえ、紗奈ちゃんって、どんな男の人がタイプなの?」
あまりにも自然な声だった。女子高生同士の雑談みたいに。
紗奈は少しだけ視線を落とした。
「……考えたこと、ないです」
「えー、ほんとに?」
華は笑う。
「紗奈ちゃんみたいな子、絶対モテるでしょう?」
「私の周り、大人しかいないので」
「恋愛に年齢なんて関係ないわよ」
華は軽い口調のまま続ける。
「それとも、誰かに禁止されてたりする?」
その瞬間だけ、空気が静かに止まった。
透也は何も言わない。
だが、カップを持つ指先がわずかに止まる。
紗奈はその変化を見ない。見ないまま、ゆっくりとフォークを置いた。
「……恋愛、ですか」
独り言みたいな声だった。華が興味深そうに首を傾ける。
紗奈は少しだけ微笑んだ。
「もしあるとしたら」
その瞳は、透也ではなく、窓の向こうの夜景を映していた。
「どこにいても、迎えに来てくれる人かもしれません」
沈黙が落ちる。遠くで、グラスの触れ合う小さな音だけが聞こえた。
華の笑みが、一瞬だけ薄くなる。
透也は動かない。けれど、その沈黙だけで十分だった。
紗奈は、彼を一度も見なかった。
ただ静かに、水の入ったグラスへ指先を添える。
その横顔は穏やかで、まるで普通の少女みたいだった。
だからこそ、透也には耐え難かった。
華がワインを口に含み、探るように笑う。
「……へえ。それ、結構重いかも」
テーブルの上の小さなスプーンが、間接照明を反射して微かに光った。
「そうですか?」
「うん。たぶん普通の女の子なら、“優しい人”とか言うもの」
紗奈は小さく笑った。
「そういうものなんですね」
その返事は、理解したふりをしている人間の声だった。
透也はようやくカップを置く。
音は静かだった。それなのに、テーブルの空気だけが、ひどく張り詰めていた。




