20-漆黒のスーツ
現場が一度ざわめいた。スタッフの声が走る。
「男性モデル、到着遅れます!」
その一言で、空気が一瞬だけ空白になる。
華のマネージャーが即座に動き、カメラマンが眉をひそめた。
スケジュールは崩せない。秒単位で積み上がっている現場だった。
「代役、いける人いる?」
視線が自然に一箇所へ集まる。
透也。
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
洸樹が小さく舌打ちした。
「最悪の選択肢だな……」
だが拒否権は、最初から存在していなかった。
クライアントに『ノー』と言わせないこと、それがこのVIP警護業界の鉄則。
「構図だけでいいです。顔は映しません」
そう言ったのは華のマネージャーだった。その言葉に、透也は一度だけ目を閉じる。
そして――何も言わずに歩き出した。
白いドレスの華の隣に、黒いスーツの影が入る。
カメラマンが息を呑む。
光が二人を均等に切り取る。
「いいですね、その距離感で!」
白と黒が並ぶことで、そこに自然と“対”が生まれる。
華は一瞬で表情を作り直した。
先ほどまでの軽さは消え、完璧な女優の顔になる。
透也は変わらない。
ただ必要な位置に立ち、必要な動きだけをしている。
だがその無機質さが、かえって構図を完成させていた。
紗奈はその様子を少し離れた場所から見ていた。
現場の騒音は遠く、光だけがやけに鮮明に見える。
(綺麗だな)
その認識は、感情というより理解に近かった。
黒いスーツと白いドレスが並ぶとき、そこには必ず意味が発生する。
それは偶然ではなく、見る側が勝手に作り上げる完成形だ。
そしてその完成形は、なぜか自分の居場所を曖昧にしていく。
透也の視線一度だけ、わずかに動いた。
レンズではなく、別の方向へ。
一瞬だけ、紗奈を見る。
そこにいる紗奈を、一瞬だけ確認するように見て、すぐに戻す。
紗奈は回顧するように、ふんわりと微笑んでいた。
その表情が、レンズ越しの光景の中でやけに静かに浮かぶ。
透也の視線が、一瞬だけそこに引き寄せられる。
(違う。そうじゃない……)
すぐに思考が否定へと折り返す。だが、その否定はあまりに脆い。
シャッター音が続く。
華が笑う。
透也はその隣で、表情を持たないまま立っている。
それでも写真は成立していた。
いや――成立しすぎていた。
洸樹が小さく呟く。
「……これ、完成しすぎてるな」
その声は誰にも届かない。届かないまま、現場だけが進んでいく。
シャッター音が止む。
「OKです!」という声で現場の熱気が緩む。
華が体を離し、透也が一歩引く。
そのわずかな距離の変化だけで、完璧だった“完成形”は瓦解した。
その声で、空気が一気に緩む。
紗奈は理解する。さっきまでそこにあったのは関係性ではない。
これは最初から、“見せるために作られた構図”だった。
そしてその構図の中に、自分の居場所は最初から設計されていない。
その瞬間だけ、視界の奥がずれた。
白と黒の境界が、やけに遠く感じる。
(……ああ)
胸の奥で、小さな音がした。
何かが終わる音だった。




