17―甘さと苦さ
ホテルのラウンジで、透也といつものようにお茶をしていた時だった。ラウンジの優雅なBGMが、一瞬で耳障りなノイズに変わった。
「透也?」
名を呼ぶ声は、刃のない音だった。薫はネクタイを正し、ホテルでの学会帰りの姿のまま立っていた。
隣の女性は一歩遅れて立ち止まった。
薫の視線が一瞬だけ彼女に触れ、すぐに逸れた。
「こちらは親戚の子とか?」
薫が遠慮がちに尋ねる。それがかえって残酷だった。
「……そんなところだ」
薫の問いかけに対する透也の短い答えは、否定でも肯定でもなく、ただその場の空気をやり過ごすための言葉だった。
「そういやこの前言ってた、統計学の話だけどさ……」
ラウンジの会話は、いつの間にか自分を置き去りにして進んでいた。
薫と話す透也の声は、さっきまでより少しだけ低く落ち着いている。
それに応える女性の声も、迷いがなくて、距離が近い。
紗奈はフォークを持ったまま、動かなくなっていた。
(あれ?)
同じテーブルにいるのに、言葉が自分のところを通過していく。
名前は呼ばれない。視線も向かない。でも、気まずさはない。
まるで最初から、自分がいない形で完成している会話だった。
透也がふと笑う。
その笑い方を、紗奈は知らない。自分に向けられるものと、少し違う。
(……あ)
胸の奥で、小さく音がした。紗奈はゆっくりと視線を上げる。
透也の隣にいる女性は、自然にそこにいた。そこにいることを、誰も疑っていない。
立ち方も、距離も、呼吸のように馴染んでいる。
その光景を見た瞬間、紗奈の中で何かがすっと落ちる。
悲しい、とは違った。
苦しい、でもない。
ただ、ひとつだけ確かな形になる。
(ここは、私の場所じゃない)
そう思ったのに、うまく言葉にならなかった。
隣にいるはずなのに、少しだけ遠い。
ただそれだけのことが、妙に身体に残る。
紗奈はフォークをそっと皿に戻した。
音がやけに大きく聞こえた。
「あっ」
小さく紗奈が声を発した瞬間、透也の意識が自分に戻ったのを感じた。
「明日テストあるんだった!」
紗奈は立ち上がる。
「先帰るね。今日もありがとう」
紗奈は透也の顔を一度も見なかった。
「送る」
透也がジャケットを手にして立ち上がろうとする。
「大丈夫。自分で呼べる」
ロビーに続く廊下がひどく長く感じた。でも立ち止まってはいけないと紗奈の中の警告音が鳴っている。
追いかけてきた透也が紗奈の腕を掴む。
「待てと言っただろう」
透也は苛立っているようだった。
紗奈は一瞬だけ目を伏せた。
「私は違う……」
「そうだ。違う」
その言葉の意味を、紗奈はすぐには飲み込めなかった。
否定なのか。
肯定なのか。
それとも、ただ別の場所に置かれただけなのか。
どれも正しい気がして、どれも違う気がする。
ただひとつだけ残るものがある。
その“違う”は、やさしいものではなかった。
この日を境に、紗奈は何かと理由をつけて透也と外出することを避けた。




