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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
4 Fractured Silence 壊れた静寂

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18/20

17―甘さと苦さ

 ホテルのラウンジで、透也といつものようにお茶をしていた時だった。ラウンジの優雅なBGMが、一瞬で耳障りなノイズに変わった。

「透也?」

名を呼ぶ声は、刃のない音だった。薫はネクタイを正し、ホテルでの学会帰りの姿のまま立っていた。

隣の女性は一歩遅れて立ち止まった。

薫の視線が一瞬だけ彼女に触れ、すぐに逸れた。

「こちらは親戚の子とか?」

薫が遠慮がちに尋ねる。それがかえって残酷だった。

「……そんなところだ」

薫の問いかけに対する透也の短い答えは、否定でも肯定でもなく、ただその場の空気をやり過ごすための言葉だった。

「そういやこの前言ってた、統計学の話だけどさ……」


 ラウンジの会話は、いつの間にか自分を置き去りにして進んでいた。

薫と話す透也の声は、さっきまでより少しだけ低く落ち着いている。

それに応える女性の声も、迷いがなくて、距離が近い。

紗奈はフォークを持ったまま、動かなくなっていた。


(あれ?)

同じテーブルにいるのに、言葉が自分のところを通過していく。

名前は呼ばれない。視線も向かない。でも、気まずさはない。

まるで最初から、自分がいない形で完成している会話だった。

透也がふと笑う。

その笑い方を、紗奈は知らない。自分に向けられるものと、少し違う。


(……あ)

胸の奥で、小さく音がした。紗奈はゆっくりと視線を上げる。

透也の隣にいる女性は、自然にそこにいた。そこにいることを、誰も疑っていない。

立ち方も、距離も、呼吸のように馴染んでいる。

その光景を見た瞬間、紗奈の中で何かがすっと落ちる。

悲しい、とは違った。

苦しい、でもない。

ただ、ひとつだけ確かな形になる。

(ここは、私の場所じゃない)

そう思ったのに、うまく言葉にならなかった。

隣にいるはずなのに、少しだけ遠い。

ただそれだけのことが、妙に身体に残る。

紗奈はフォークをそっと皿に戻した。

音がやけに大きく聞こえた。


「あっ」

小さく紗奈が声を発した瞬間、透也の意識が自分に戻ったのを感じた。

「明日テストあるんだった!」

紗奈は立ち上がる。

「先帰るね。今日もありがとう」

紗奈は透也の顔を一度も見なかった。

「送る」

透也がジャケットを手にして立ち上がろうとする。

「大丈夫。自分で呼べる」


ロビーに続く廊下がひどく長く感じた。でも立ち止まってはいけないと紗奈の中の警告音が鳴っている。

追いかけてきた透也が紗奈の腕を掴む。

「待てと言っただろう」

透也は苛立っているようだった。


紗奈は一瞬だけ目を伏せた。

「私は違う……」

「そうだ。違う」

その言葉の意味を、紗奈はすぐには飲み込めなかった。

否定なのか。

肯定なのか。

それとも、ただ別の場所に置かれただけなのか。

どれも正しい気がして、どれも違う気がする。

ただひとつだけ残るものがある。

その“違う”は、やさしいものではなかった。


この日を境に、紗奈は何かと理由をつけて透也と外出することを避けた。

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