16―ケーキとコーヒー
十一歳の紗奈は、時々勉強を見てくれたり、カフェに連れていってくれる年上のお兄さんを慕っていた。
さすがに彼のことをもう「王子様」とは思っていない。けれど、透也が迎えに来る日は、朝から少しだけ落ち着かなかった。
今日も紗奈は彼の高級セダンの助手席に乗り、ホテルのラウンジに連れてきてこられていた。
ホテルのラウンジは、高い天井と静かなピアノの旋律が流れる、紗奈にとって少し背伸びをした大人びた空間だった。
透也は紗奈の好みを心得ている。運ばれてきた新作ケーキの繊細な装飾を見た紗奈の表情が、先ほどまでの警戒心を解いてふわりと綻ぶのを、彼は満足げに見つめていた。
「……そんなに嬉しいか」
「だって可愛いもの。見て、この飾り」
紗奈は嬉しそうにフォークを持ち上げる。その無防備な横顔を見ていると、透也の胸の奥に沈殿していた苛立ちや疲労が、少しだけ薄れていく。
不思議だった。会社の人間といる時よりも。大学の友人たちといる時よりも。
こうして紗奈がケーキを眺めている時間の方が、よほど静かだった。
「どうして……」
紗奈はフォークを手に取りながら、ふと、ずっと胸の奥に引っかかっていた言葉を口にした。
「私のために時間を使うの?」
透也はホットコーヒーのカップを持ち上げ、ゆっくりと口元へ運ぶ。その横顔は、紗奈が知るどんな大人よりも冷たく、そして不思議なほど寂しげに見えた。
「透也さんは、デートとかしないの?他の女の人と。私みたいな子どもとお茶して楽しいの?」
ラウンジを歩く女性たちの視線が、時折こちらへ向く。それを紗奈はちゃんと見ている。
(今だって……)
紗奈の言葉に、透也は少しだけ眉をひそめた
透也はコーヒーカップを置き、紗奈を真っ直ぐに見つめた。彼の視線は熱を帯びていて、紗奈は心臓が少しだけ速く打つのを感じた。
透也自身も、うまく説明できていなかった。なぜ早川家へ向かってしまうのか。なぜ紗奈の顔を見ると、少しだけ呼吸が楽になるのか。
「そうだな。……確かに、もっと効率的で、もっと楽しい時間は他にあるかもしれない」
彼はそう言って、少しだけ自嘲気味に笑った。
「だが、紗奈。お前といる時間が、俺にとっては何よりも替え難い『確認作業』なんだよ」
「確認?」
「ああ。俺がまだ、誰かを守りたいと思える人間であるかどうかの……な」
透也の声は低く、どこか遠い未来の誓いを立てているかのように響いた。
彼は紗奈の目の前に座っているが、その視線はもっとずっと先の、紗奈が大人になった姿を透かして見ているようだった。
あと数年もすれば、今みたいに無防備に自分へ笑わなくなるのかもしれない。
他の誰かを見て、他の誰かに触れて、当たり前のように自分の知らない場所へ行く。
その想像だけで、胸の奥に説明できないざらつきが走った。
透也は無意識に視線を逸らし、冷めかけたコーヒーを飲む。
「透也さん?」
「崩れるぞ。早く食べろ。……お前が一人前になるまで、俺がとことん付き合ってやる」
彼はそう言って、まるで壊れやすい宝物を守るような手つきで、紗奈の髪を撫でた。
今の紗奈には、その手がやがて自分を世界で一番深く縛り付け、同時に世界で一番強く愛するようになる運命の刻印だとは知る由もなかった。
ケーキの甘さとコーヒーの苦みが混ざり合うテーブルの向こうで、この時間が何なのか、彼にはまだわからない。ただ、どれだけ面倒でも、どれだけ予定を崩しても。
また数日後には、自分は理由を探して早川家へ向かうのだろうと思っていた。
車内には、微かな革の匂いと、紗奈の穏やかな寝息だけが満ちている。
早川家の邸宅まであと数分。その距離を惜しむように、透也はエンジンを切った。
静寂が訪れる。
助手席の紗奈は、夢の中でさえ彼に心を許しているのか、無防備なほど柔らかい表情で眠っている。
さっきまでラウンジでケーキを頬張り、少しだけ大人びた口調で話していた少女が、今はただの十一歳の子供として隣にいる。
透也はゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬を指先でなぞった。 肌の感触は、透也が日頃触れている書類や、冷酷な会議の場にあるどの物質よりも温かく、脆い。
(……本当に、自分は何をしているんだろうな)
ハンドルを握る手とは別の、もう一つの顔。 「城瀬の嫡男」としての冷徹な仮面は、この車のドアを閉めた瞬間に脱ぎ捨てられる。
だが、今の自分は一体、何のためにこの時間を費やしているのか。
将来の優秀な駒として確保するためか? いや、それだけではない。
そんな合理的な理由だけでは、自分が感じているこの得体の知れない飢餓は説明がつかない。
透也は自分の指先を見つめた。
今、この小さな命を自分の世界に引きずり込み、彼女の成長という名の毒を、自らの血肉に刻もうとしている。
紗奈が目を覚ませば、また無邪気な笑顔で自分を見るだろう。
その笑顔が、いずれ自分を縛り上げる鎖になるとも知らずに。
「……狡い男だな、俺も」
自嘲の笑みが口元に浮かぶ。 彼は決して、紗奈の人生を邪魔するつもりはない。
紗奈を送り届ければ、また明日から元の生活に戻る。なのに、その「元」に戻ることを、透也は少しだけ億劫に感じていた。
透也はシートを少し倒し、彼女の寝顔をもうしばらく眺めることにした。
早川家に送り届ければ、また「保護者」としての冷たい距離が戻る。
透也は再びエンジンをかけようと手を伸ばした。車が早川家の門へと動き出すまでのほんの数分間、彼は初めて、自分の「業」を素直に受け入れる決意を固めていた。




